●マレーシア連邦 マレーシアれんぽう
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マレー半島,ボルネオ島北西部のサバ,サラワクを含む,人ロ1,526万の国家。1957年8月31日,イギリスから独立し,1963年にマレーシア連邦を形成した。首都はクアラルンプール,国語はマレー語である。【歴史】マレー半島に形成された古代国家の多くは周辺の強大な国家の影響下に置かれてきた。1世紀末にメコンデルタに成立した古代国家扶南はマレー半島にその勢力をのばしていたが,7世紀半ばに扶南が滅亡すると,スマトラに興ったシュリヴィジャヤがそれに代わる。シュリヴィジャヤは海上貿易を経済的基盤として13世紀にいたるまで,マレー半島をその影響下に置いた。マレー半島の歴史の上で最初の重要な出来事は14世紀末におけるマラッカ王国の出現である。マラッカ王国は15世紀には東西を結ぶ海上貿易の一大中心地となりマレー半島,スマトラにその勢力をのばし,当時最も繁栄をきわめた王国を形成した。この国家は領土を基盤とするものではなく,水域制国家ともいうべきもので,支配する対象は土地ではなく,河であり,海であった。マレー半島の伝統的な村や国は河の合流点や河口に発達し,河は村や国を結ぶ道であり,海は外の世界への道であった。マレー半島の国家の経済的基盤は河や海や港を舞台にした貿易にあった。マラッカ王国は王のイスラーム教への改宗によって,当時,東西海上貿易を握っていたペルシア,インド,アラビアのムスリム商人たちをひきつけ,東南アジアにおける最も繁栄した国家となった。この繁栄は1511年,アフォンソ=ダルブケルケに率いられたポルトガルの艦隊によって奪われ,マラッカ王国は滅亡する。こうして16世紀におけるヨーロッパ諸国による東南アジア侵略が開始されたのであった。マラッカはその後,1641年にオランダに,1795年にイギリスに支配される。ところが1818年,マラッカは再びオランダの手にわたる。この返還はイギリスにとって一つの危機であった。それは19世紀に入り,茶を中心にした中国貿易の維持がイギリスにとって重大な問題になってきたためである。イギリスは中国貿易のため中継基地の獲得にせまられていた。イギリスは1786年,ペナン島を占領したが,この島は航路からはるか離れていた。イギリスが次にその基地を置いたのはシンガポールで,1819年のことであった。こうしてイギリスは東南アジアにおける植民地建設を開始したのである。19世紀から20世紀にかけてのマレー半島は,政治的にはしだいにイギリスによる植民地化が進み,1867年には,ペナン,シンガポール,マラッカからなる海峡植民地がつくられ,1896年には,ペラ,スランゴール,ヌグリスンビラン,パハン四王国にイギリス人の駐在官が置かれ,駐在官によって統治するという方式が導入され,この四州はマラヤ連合州を形成した。こうして,マレー半島は,海峡植民地,連合州,そしてペルリス・クダ・クランタン・トレンガヌ・ジョホール五王国からなる非連合州を含む植民地としてイギリスの支配の下に置かれた。この植民地に発達したのが,スズの採掘と天然ゴムの栽培で,この二つの商品の産出が植民地経済を支えたのである。
イギリスの植民地支配は,1941年にマレー半島に侵略を開始した日本軍によって破られる。しかし,同時に英領マラヤは日本軍政下におかれることになる。1945年に日本は連合国に降服し,日本軍政は終わる。イギリスは再び戻ってくるが,そのときまでに発達したナショナリズムはイギリスの再植民地の計画を許さなかった。英領マラヤは,1963年イギリスから独立し,マレー半島のスルタンをいただく9州(独立前の連合州および非連合州),旧海峡植民地のシンガポール,ペナン,マラッカおよびサバ,サラワク2州を統合してマレーシア連邦を結成した。初代の首相はトゥンクニアブドゥル=ラーマンである。1965年8月9日にシンガポールはマレーシア連邦を離脱して独立国家となった。
【社会】マレーシアの社会の特色は多人種からなる複合社会であるという点にある。この事実が独立後,マレーシアという国家を形成するにあたり,さまざまな問題を生んできたといえる。マレーシアの人種構成はマレー系46.8%,中国系34.1%,インド系9%,ダヤク族3.7%,カダサン族1.8%,そのほか4.6%である。このようなさまざまな人種グループは言語・宗教・習慣の相違から混合しあうことなく共存してきた。 マレー人はマレー語を話し,イスラーム教を信じている。彼らはブミプトラ(土地の子)と呼ばれ,マレーシアを形成する上で国家の中核をなし,政府はブミプトラ優先策をとっている。マレー人は伝統的に農民・漁民として生き,アニミズム信仰をもち,独自のアダート(慣習法)をもつ村落共同体を形成してきた。この基本的な性格は現在も受け継がれているが,このような社会に1世紀から15世紀にわたってインド文化が浸透していった。インド文化はマレー人の生活のなかで,さまざまな習慣,儀礼,法律,文学,演劇などに深い影響を与えてきた。15世紀に入るムスリム商人によりイスラーム教が紹介され,マラッカ王国を中心にイスラーム教はマレー半島全域,そしてスマトラヘと拡がっていった。イスラーム教は現在のマレー人にとって宗教という限られた機能をもつだけでなく,イスラーム法により日常生活は規定されている。また,イスラーム教の受容とともにジャウィとよばれるアラビア文字がマレー語を表記するために採用された。そのためマレー語の文学,法律,歴史などが後世に伝えられた。現在ではマレー語はローマ字で表記されている。イスラーム教は今日もなお最も重要な役割を果たしている。
中国人のマレーシアヘの来住は19世紀にイギリスの植民地建設とともに始まり,ことに19世紀後半,錫鉱山の開発のため大量の中国人労働者が来住した。彼らは主として福建省や広東省出身者であるが,中国人はマレーシアにおいては出身地別,つまり福建語,広東語,潮州語,客家語,海南語等の方言別に共同体を形成していった。中国人はマレー人に比較すると,都市人口が多い。金融業・貿易業・商業・運輸業・職人・錫鉱山・ヤシ・ゴム農園等の労働者,飲食業,サービス業等の職業につく人が多く,依然としてマレーシア経済の重要な担い手である。彼らの宗教は,主として仏教と道教であるが,出身地や従事する職業によって信仰の対象もさまざまである。マレーシアの各地でみられるように釈迦・観音・媽祖・関帝・羅漢等が共祀されていることも多く,仏教・道教の混在がみられる。
インド人がマレーシアに大量に来住したのは,やはり中国人と同じように19世紀のイギリス植民地の成立後である。ことに19世紀中ごろからゴムの栽培が開始されると,マレー半島西海岸のゴム園にプランテーション労働者としてインド人が来住するようになった。彼らは南インドのタミル人・テルグ人・マラヤリ人・北部インドのシク教徒・パンシャーブ人等で,その話すことばも,タミル語,テルグ語,マラヤーラム語等と多様である。宗教については,ヒンドゥー教徒がおもで,若干のシク教徒,イスラーム教徒,キリスト教徒等がみられる。インド人は,ゴム園のエステート労働者のほかに,重工業労働者・金融業・警官・技術者・教師・医師・弁護士になるものが多い。
マレーシア政府は,独立後さまざまな問題に直面した。多人種複合社会をどのように統合してマレーシア人としての意識をもたせるかということは独立国家を形成する上で基本的な問題であった。マレーシアは,この問題を一方ではマレー化という政策で解決しようとした。マレー語を国語として採用した。信教の自由は認められているがイスラーム教は国の宗教である。マレー人優先政策をとっている。また,国家の元首スルタンは9人のマレー人スルタンから交互に選出される。また,もう一方で政府は人種の別なく政治参加の道を開き,経済の発展,公平な富の分配をはかった。しかし,人種・地域・階層等が複雑に交錯した社会での問題は依然未解決であり,この複合社会がマレーシア人としてのナショナル=アイデンティティを形成するには時間が必要であろう。