●マレーシア
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1963年9月16日,マラヤ連邦,シンガポール自治領,サバ,サラワク保護領という旧英領植民地が連合して成立した連邦国家で,1965年8月9日,シンガポール州が分離独立したため,それ以後現在までマラヤ半島の11州(西マレーシア)とサバ・サラワクの2州(東マレーシア)の13州よりなる英連邦内の独立国である。1474万人(1983年推計)の人口のうち多数を占めるマレー人にちなんでマレーシアと名づけられているが,西マレーシアでは,マレー人(55.3%)のほか中国系住民(33.8%)とインド系住民(10.2%)がおり,東マレーシアでは,マレー人は少数であり,サバでは,カダザン・バジャウ・ムルートの3種族が多数を占め,サラワクでは,海ダヤク・陸ダヤク族などが50%を占めており,典型的な複合人種社会を構成している。国土面積は,約33万平方kmで日本全土よりやや小さく,マラヤ半島(13万平方km)とサバ・サラワク(20万平方km)に海を隔てて分かれている。地理的には東南アジアの島嶼部に属し,北緯1〜7度のあいだにひろがり,熱帯モンスーン地域に属し,森林資源(木材・ゴム・油椰子など)や鉱物資源(錫・石油・鉄・ボーキサイトなど)に恵まれている。【歴史】14世紀末,マラッカに成立したマラッカ王朝が現在のマレーシアを考える出発点となっており,イスラームを国教とし,スルタンを国王とするマレー人社会の政治体制が生まれ,現在もマラヤ半島の9州にスルタンが君臨している。このマラッカ王朝は,1511年,ポルトガルに占領され,1641年,オランダがポルトガルに代わってマラッカを占領し,18世紀末から1914年にかけてイギリスがマラヤ半島,シンガポール,サラワク,北ボルネオ(サバ),ブルネイを植民地支配した結果,イギリス支配のもとで,[1]錫とゴムの2大産品が発展し,[2]マレー人に加えて中国人とインド人を含む複合人種社会が形成され,[3]マレー人を中心に英語教育を受けた少数のエリートが育成されることになった。今世紀に入り,各人種社会のなかで展開された独立運動が実を結ばないあいだに,1941年日本が進出し,イギリス植民地支配が倒れたが,1945年の日本の敗戦により,イギリス植民地支配が復活し,1957年,マラヤ連合党の指導のもとで,マラヤ連邦として独立した。ついで,1963年,マラヤ連邦を中心にマレーシアが生まれ,1965年のシンガポールの分離後も,マレーシアとして今日にいたっている。この間,マラヤ連合党は,「統一マレー人国民組織」を中核としてマレー人優先の政策を推進し,1969年5月13日の人種対立事件を乗り切ったのちは,いくつかの野党を与党の国民戦線に結集し,イスラーム原理主義の立場に立つ回教党とマレー人優先政策に批判的な民主行動党という左右の野党勢力を抑えて,長期政権を維持している。
【複合人種社会の苦悩】イスラームを信仰し,スルタンへの忠誠(回教党はスルタンに批判的)を紐帯とし,マレー語を話すマレー人と,仏教・儒教・道教を信仰し,祖先崇拝と幇(パン)の連帯により結集し,中国語(福建・広東・潮州・海南・客家語など)を話す中国人と,ヒンドゥーを守り,タミル語を話すインド人のあいだには,価値観,生活体系などの上で大きな違いがあり,相互の通婚と融話はきわめて困難であるといえる。この複合人種社会を政治的に統合しているのが,各人種社会の英語教育を受けた政治エリートであり,マラヤ連合党,その後の国民戦線の指導者たちであるが,その中核はマレー人政治エリートであり,マレー人優先策のもとで経済開発を進めている。しかしこの政策の結果,マレー人社会内部において経済格差が拡大し,政府主導の政策に反発する回教党の運動を活性化させるとともに,マレー人優先策に反発する非マレー人の不満を内向させている。このため,1981年7月,第4代首相となったマハティール首相は,イスラーム原理主義的な回教党の動きを警戒するとともに,中国人社会の融和を求める努力を行っているが,人種間の格差と人種内の経済的・イデオロギー的格差の拡大のなかで,政治的統合を維持することは容易でない現状にある。
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