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●マルコ=ポーロ

ヨーロッパ イタリア共和国 AD1254 両シチリア王国

 1254〜1324 ヴェネツィア人。商人の父ニコロ=ポーロと叔父マフェオ=ポーロは,1260年,コンスタンチノープルを出発し,キプチャク汗国のベルケ=ハンに会い,ボハラにしばらく滞在したのち,東方の元朝に赴いた。2人はフビライ=ハンの宮廷で西欧事情を解説した。フビライは,教皇に親書を送ることを思い立ち,2人が結局その親書を届ける役目を果たすことになった。1269年,2人はヴェネツィアに帰った。教皇に親書を届け,教皇からフビライ宛返書を得て,再び1270年東方に出発した。その際,2人はニコロの子マルコを伴った。一行は,アークルからタブリーズ,ホルムズをへて中央アジアに入り,バダフシャンに1カ年滞在したのち,カシュガル,コータンを通り,中国西北辺境に入り,甘州で1カ年を過ごし,1274年上都に達した。フビライは,一行の来訪をたいへん喜んだという。以後17年間,マルコはフビライに仕える身となった。『東方見聞録』中で宮廷における饗宴やフビライの狩猟について精細に述べている点からみても,側近にあったことがうかがえる。終始,都にとどまっていたわけでない。雲南をはじめ諸方面にフビライの使節として赴き,海外ではチャンパにも出かけたことがある。また揚州で3カ年間統治に当たったともいう。17年間,何という官職についていたのか,結婚していたのかどうか,ニコロとマフェオは何をしていたのかは明らかでない。モンゴル人・色目人のなかで暮らし,中国人社会に溶け込んでいたわけではないようで,モンゴル語と当時の国際語ペルシア語には通じていても,中国語は解さなかった。

 1290年,イル=ハン国の使節ウラダイ,アプシュカ,コージャの3人は,アルグン=ハンの妃となるべきコカチンを連れて元朝から帰国することになった。その際,マルコら3人は同行を乞われ,泉州より海路により出発する。この一行の出発にかかわる記録が元朝の『経世大典』に収められている。そこには,マルコら3人の名はみえないが,間接的ながらマルコらの中国出発を裏づけている。マルコによれば,一行は水夫を除いて600人を下らず,14隻の船に分乗し,2カ年分の食糧を積んで出発した。前記の元朝の記録では,一行は160人とする。チャンパを経由し,マストラでは風の関係で5カ月滞在し,セイロン島に立ち寄り,インド西岸沿いに進んだ。18カ月ののち,1293年にホルムズに上陸した。一行は,わずか18人になっていたという。タブリーズに達すると,すでにアルグンは亡く,マルコらは当時,ホラーサーンにいた,のちにハンとなるガザンのもとへコカチンを送り届けた。その後,タブリーズをへて,1295年にヴェネツィアに帰還した。

 1298年(一説に96年),マルコは,ヴェネツィアとジェノワの戦争に参加し,捕われて牢に入れられた。帰国後,すでにヴェネツィアの人々に東方での見聞を聞かせていたマルコは,そのとき同じ囚われの身であったピサの人で物語作家のルスティケロに,見聞したことを筆録させ,かの『東方見聞録』ができあがった。1299年,ヴェネツィア・ジェノワ間に和平条約が結ばれ,マルコらは釈放された。のち,ドナータという女性と結婚し,ファンティーナ,ベレーラ,モレータという3人の娘を得た。父ニコロは,マルコの釈放後まもなく死んだ。マルコは,マフェオとともに貿易に従事していた。かたわら金貸しも行っていた。返済が滞ると,訴訟をおこすことも行い,その記録が今日にも残っている。従兄弟のマルコリーノ=ポーロのごときは,1306年と1319年の2度も訴えられている。死ぬ前に,マルコは遺言状を作成した。そこでは,修道院,修道士や義妹に対する債権を放棄したり寺院や施療院などに遺贈したりしている。マルコは,同時代人から“百万”というあだ名がつけられた。それは,金持ちであったことに由来するという説もあったが,財産はそれほどではなかったとして,その説は疑問視されている。

〔参考文献〕岩村忍『マルコ・ポーロ』1951,岩波書店

佐口透『マルコ=ポーロ』1978,清水書院

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