●マルクス
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1818 ドイツ連邦
1818〜83 ドイツの社会主義者,マルクス主義(科学的社会主義)の創始者,多方面の理論活動とともに,国際的な社会主義・労働運動の指導にあたる。【思想形成】プロイセンのライン州トリールで,ユダヤ人の弁護士を父として生まれる。ボン,ベルリン両大学で,法学・歴史・哲学を学ぶ。イエナ大学から論文「デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異」(1841)によって,学位取得。このころはヘーゲル哲学の影響下にあったが,ベルリンでヘーゲル左派の人々との交わりをもっていた。大学教師の道を希望していたが,当時の反動的文教政策のもとでは,その志を果たしえなかった。1842年から反政府的な新聞「ライン新聞」の主筆となり,ドイツの社会的現実を批判し始め,後年,経済学研究におもむく伏線がはられる。1843年,パリに行き,「ドイツ=フランス年誌」を発行し,『ヘーゲル法哲学批判序説』や『ユダヤ人問題によせて』を執筆した。ここにはヘーゲル左派を乗りこえ,フォイエルバッハの唯物論を媒介にして,人間解放を精神や政治の領域にとどめず,物質的経済的解放にまで徹底させること,そして解放の担い手はプロレタリアートであること,こうした認識の進展が示されている。さらに,この見地を哲学的経済学的に深化させるため『経済学・哲学草稿』(1844)を書き,近代市民社会=資本主義社会における「疎外された労働」の成立とそれの克服を問題にした。また1844年には,マンチェスターに滞在していたエンゲルスが,パリにマルクスを訪れ,生涯にわたる親密な関係が始まる。エンゲルスは,イギリスにおける資本主義とプロレタリアートの実態を見聞し,それへの批判的見地をたずさえていた。これはマルクスにとって,自らの思想を確立するうえで,貴重な援軍ともいうべきものであった。当時の彼らの共同労作『聖家族』(1845)と『ドイツ=イデオロギー』(1845/1846)は,史的唯物論の原型を提示している。1845年パリを追われ,ブリュッセルに移ったマルクスは,ここで共産主義者同盟に加わる。1848年には同盟の委託をうけ,エンゲルスとともに,同盟の綱領を共同起草した。これが『共産党宣言』であり,マルクス主義の階級闘争の理論と実践方向が明示されている。
【革命運動と『資本論』への道】1848年,フランス二月革命・ドイツ三月革命がおこると,マルクスはケルンで「新ライン新聞」を発刊,論陣を張りつつ,ドイツの急進自由主義の党=民主派の最左派を形成する。革命運動の挫折ののち,パリをへてロンドンにわたる。この革命に関して『フランスにおける階級闘争』(1850)や『ルイ=ボナパルトのブリューメール18日』(1852)を書いた。これらは,パリ=コミューンについて書いた『フランスの内乱』(1871)を含めて,マルクスの実践と理論活動の深い結合を示すとともに,史的唯物論の具体的適用と展開であった。1864年,ロンドンで国際労働者協会(第1インターナショナル)が創立されると,これに参加し,プルードン派・バクーニン派・ラサール派・イギリス組合主義などの非マルクス主義的潮流と論戦を展開した。さらに彼は経済学の研究に力を注ぐ。すでに1859年に『経済学批判』を著わす。この序文は,史的唯物論の命題の定式化として著名である。エンゲルスが,1869年にロンドンに移ってくると,第1インターナショナルの仕事をゆだね,『資本論』に精力を傾ける。第1巻は,存命中に公刊され(1867),第2・3巻は1885年,1894年にエンゲルスの手によって発刊され,第4巻の『剰余価値学説史』は,カウツキーが編集・公刊した(1905〜10)。ロンドンで没す。
〔参考文献〕大内兵衛『マルクス・エンゲルス小伝』1964,岩波書店
D. マクレラン,杉原四郎他訳『カール・マルクス』1976,ミネルヴァ書房
向坂逸郎『マルクス伝』 1962,新潮社
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