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●マリ帝国 マリていこく

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 13〜15世紀の西アフリカに栄えた大帝国。王都をニジェール川上流のニアニイに置き,最盛期には,西はガンビア海岸からセネガル川,東はニジェール川中流のソンガイ地方から,サハラ砂漠中央のアイール地方にいたるまでの西アフリカのほぼ西半分を包みこむ大帝国となった。中心になったのは,マンディング語族のマリンケと呼ばれる民族だと考えられている。

【マリ帝国の形成と発展】ガーナ王国が8世紀,アルモラビッドの攻撃を受けて弱体化した後の西部西アフリカの小王国乱立状態は,13世紀前半に登場したマリンケ族の英雄,スンディャタ=ケイタにより,再び統一へと向かった。スンディャタは金産地ブレ近くの小王国の首長の子として生まれた。幼時は足が不自由であったといわれるが,長じては大戦士となり,1235年に当時の強国ソッソを打ち破ると,1240年にはガーナ王国の首都を陥落させ,栄光あるガーナ王国の後継者を自認するにいたった。マリ帝国の強勢を伝える逸話は数多いが,その一つは1310年ごろ,アブバカリII 世によって企てられた大西洋横断の試みで,2,000の船隊が派遣され王自身もこれに加わり,大洋のかなたに消えてしまったという。次のマンサ=ムーサ王(ゴンゴあるいはカンカ=ムーサ王ともいう)の時代(1312〜35)には,数千のお供をひきつれた(一説には1万人以上)王の豪華なメッカ巡礼が行われた。一行は多量の金をもたらし,そのためエジプトのカイロの金相場は下落して元に復するのに12年かかったという。以来,金の国マリの名は地中海世界に広く知れわたった。マンサ=ムーサの時代はマリ帝国の最盛期であった。王はアラビアやエジプト人の学者多数を招き,トンブクツやガオには立派なモスクを建立した。アラブ風の建築技術も導入された。マンサ=ムーサの死後マリを訪れた,高名なアラブの旅行家イブン=バットゥータは,帝国の繁栄と治安のすばらしさに目を瞠っている。

【マリ帝国のイスラームと交易】マリ帝国もガーナ帝国と同様,サハラ交易による商業活動とイスラーム教の刺激を受けつつ形成された黒人国家であるが,この時代イスラーム化と交易活動はさらにすすんだ。土着宗教にとどまったガーナの王と異なり,マリ王ははっきりとイスラームに改宗し,マンサ=ムーサ王のように盛大なメッカ巡礼を行う王も現れた。イスラーム教の研究もすすみ,トンブクツーはイスラーム学の都として北アフリカにまで知られるようになった。しかしマリ帝国全体としてみた場合,イスラームはやはり長距離交易に関係した一部の者の宗教にとどまり,王宮の儀礼や習慣にも土着宗教の影響が強く残っていたという。長距離交易に関していえば,マリ帝国の主要輸出品はガーナ時代と同じく金,それに奴隷であり,布や銅・塩・ビーズ類が輸入された。金産地は,ガーナ時代にも採掘されたガラム(バンブクともいう)とブレのほかに,より南方の産地ビトゥがあった。産地から金を手に入れるにあたってはやはり沈黙交易に従い,商人は産地や採掘者と直接接触できない仕組になっていた。なお,この時代交易ルートに大きな変化があり,従来の南モロッコに抜けるルートから,サハラ中央のタマンティツトを経由して,ワルグラから,チュニジアに抜けるルートへと,重心が移り,エジプトやトリポリ地方との交易が活発化した。

【マリ帝国の崩壊】巨大なマリ帝国はさまざまな方向から攻撃を受けやすく,その崩壊も速かった。とくにサハラ中央部よりの交易ルートの重要度がますにつれて,この支配をめぐり南方からはモシ族,北方からはツアレグ族,西方からはソンガイの攻撃を受けるにいたった。とくにガオを中心とするソンガイの勢力伸張はめざましく,1400年には王都ニアニイに攻め入るまでになった。マリ帝国はその後形骸化したが,ケイタ王朝は,17世紀中葉まで存続した。

〔参考文献〕山口昌男『黒い大陸の栄光と悲惨』1977,講談社

シューレ=カナール『黒アフリカ史』1964,理論社

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