●マリー=アントワネット
ヨーロッパ フランス共和国 AD1755 フランス王国
1755〜93 フランス国王ルイ16世の妃。オーストリア女帝マリア=テレジアと皇帝フランツ1世の第4皇女(第9子)としてウィーンに生まれる。幼時よりフランスの王妃となることを母帝から定められ、フランスのショワズール外務大臣の働きにより、1770年5月、フランス王太子のもとへ嫁いだ。パリでの祝賀パーティは華美をきわめたが、犠牲者も出た。ウィーンの宮殿では清楚な生活であったがヴェルサイユでは儀式ばった毎日に倦み、ダンス・賭け・祭りに気晴しを求め、1774年の王太子の即位後も放蕩生活はやまなかった。このため、宮廷費がつのり、パリ高等法院や改革派の大臣には不人気であった。テュルゴーの失脚と財政楽観論をとるネッケルの最初の登用には彼女の口添えがあった。結婚8年後に懐妊。モールパ宰相の死(1781)後、とくに国王への影響力を強め、1785年の真珠の首飾り事件で評判を決定的に落す。全国三部会召集後もアルトワ伯と組んで改革に反対し、国王に圧力をかけた。ヴェルサイユ行進のときは群衆に平然と対応したが、ミラボーやラファイエットの調停をはねつけ、立憲君主政を受けいれなかった。ミラボーの死後、ウィーン宮廷と連絡を密にして帝国軍の介入を求め、1791年6月20日には国王をそそのかしてヴァレンヌ逃亡を行わせた。1792年の8月10日、事件でタンプルに拘置され、国王処刑後、王女・王妹とひき離され、王子は外国がルイ17世として認めたが1793年7月初め以後、パリの靴屋のもとにひきとられた。8月1日よりコンシェルジュリ牢に入れられ、髪は真白になったといわれる。10月14日、革命裁判所に引出され、貴族の威厳は失わず、母としてなすべきことをしたと弁明したが、反革命の罪状は明白とされ、2日後に処刑された。1815年、遺骸はサン=ドニに移された。
ロココの女王とも呼ばれ、初めてのマルリ宮旅行(1774)後、羽飾りや花飾りのパニエを着用し、高い髪型を結わせた。
