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●マラッカ王国 マラッカおうこく

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 15世紀初めから1511年まで,マレー半島のマラッカを中心にして栄えたイスラーム王国。この国の創始者パラメーシュヴァラ(在位1403ころ〜1414)は,ジャワ出身であるとも,パレンバン出身でシャイレンドラ王朝の子孫であるとも伝えられるが,マジャパヒトによってパレンバンを追われ,トゥマシック(シンガポール),ムアル(マラッカ南方),ブレタン(マラッカ河上流)を転々とした後,マラッカの地に小国を建てた。当時,この地は寒村にすぎなかったが,マラッカ海峡の中央部にあり往来の船を支配できるという好位置に恵まれ,また港としても優れていた。当時,マレー半島に勢力を誇ったのはタイのアユタヤ王朝であったが,マラッカ王国はその圧力に対抗するため,建国当初より中国の明朝に対して朝貢関係を結んだ。すなわち,1403年の明の招輸使を受けて,1405年には初めて使節を派遣し,パラメーシュヴァラは,満刺加国王に封じられている。その後,同王は5回,第2代のイスカンダル=シャー(在位1414〜23ごろ)は8回,第3代のシュリー=マハーラージャ(在位1423〜44)は9回というふうに,各王は頻繁に明に入貢,それぞれ即位直後に満刺加国王に封じられている。

マラッカ王国の最盛期を築いたのは,王位継承紛争に勝利して即位した第5代(もしくは第4代)国王ムザッファル=シャー(在位1445〜59ごろ)である。同王は2度にわたってアユタヤ朝の攻撃を退けて北方へ支配を拡大し,また南方ではシンガポール海峡地帯,スマトラ東岸諸港を征服し,マラッカ海峡を通る交易を支配できる体制をつくり上げた。また,同王は初めてスルタンの称号を用い,この時からマラッカはイスラーム教国として確立したと考えられる。以後,歴代の君主はすべてスルタンを名乗った。このような状況は,この地に西アジア,インドのムスリム商人を引き付け,マラッカは典型的な海上商業権力として発展し東南アジアの強国としての地位を築いた。マラッカ港には東南アジア各地,中国,琉球,インド各地,セイロン,西アジア,東アフリカの諸地域から毎年百数十艘の船が入港し,中国産の陶磁器・絹,香料群島からのチョウジ・ニクズクなどのスパイス,インド産の綿織物などの商品が取引された。こうした事態に対応するため,マラッカにはそれぞれの方面から入港する船を管轄する4人のシャーバンダル(港務長官)が置かれ,出入国の管理や関税業務にたずさわった。当時の交易の繁栄ぶりについて,この地を訪れたポルトガル人のトメ=ピレスは『東方諸国記』の中で,「マラッカは商品のためにつくられた都市で,(その点については)世界中のどの都市よりもすぐれている」と絶賛している。

 最盛期のマラッカ王国はマラッカ港市と近郊からなる直轄地,征服併合した地域である属領,スマトラ東岸やマレー半島東岸の朝貢国から構成された。支配の頂点に立つスルタンの下には,支配層としてブンダハラ(宰相),プングフル-ブンダハリ(財務長官),トゥムンゴン(治安長官)などの官職があり,これらは特定の家系によって世襲的に独占された。彼らは所領を持つとともに,自らは交易に手を染めず,もっぱら外国人商人が行なう通商活動を保護し,そこからの関税その他を経済基盤とした。このように繁栄を誇ったが,16世紀に入るとこの地域への進出をねらうポルトガルの目標となり,ついに1511年,ダルブケルケ率いるポルトガル軍によってマラッカの港市は占領されてしまう。ポルトガルはこの地を東方経営の拠点に定めたが,これ以降,グジャラート商人をはじめとするアジア商人がポルトガルの支配を嫌って他の貿易港を求めるようになったことなどから,マラッカの中継貿易の中心としての地位はしだいに低下した。なお,ポルトガルの征服時に逃れた王族たちは,ジョホールをはじめとして旧領内に分立し,後のマレー諸王国の基礎を形成した。

〔参考文献〕和田久徳「東南アジアの社会と国家の変貌」(岩波講座世界歴史13)

トメ=ピレス,『東方諸国記』岩波書店

M.A.P.Meilink-Roelofsz, “Asian Trade and European Influence in the Indonesian Archipelago Between 1500 and About 1630”1962,The Hague C.C.Brown(tr.)“Sejarah Melayu or Malay Annals”1970 Kuala Lumpur