50音順    検 索

●マラータ

アジア インド AD 

 インドのマハーラーシュトラ地方に住むヒンドゥー教徒。本来スードラのカーストに属するといわれる。ムガルに抵抗した農民反乱の代表とされ,イギリスとの3次にわたる戦争も有名である。彼らによって,17世紀以後,19世紀前半まで存続していたヒンドゥー国家はマラータ連盟としても知られる。この地方では,部族の長は幾代にもわたってヒンドゥー村落の長を占めている家系に属し,共和体にも似た結合を保っていた。「卑賤なる者の群」といわれた人々が,政治勢力として台頭してくるのは1680年ごろからであるが,その天才的指導者がシヴァージー(1627〜80)である。ビジャープル王国の傭兵隊長を父として生まれた彼は,バクティと呼ばれる宗教運動の影響を,師ラーム=ダースを通じて受け,巧みな作戦指導によりビジャープル,ついでムガル帝国と抗争を繰り返しながら政治勢力を貯えた。彼はイスラーム寺院に対して害を加えぬよう命ずるなど,イスラーム教徒にも配慮を怠らなかった。1666年には,アウラングゼーブに監禁状態に置かれたこともあったが脱出して,1667年にはラージャーの称号を許され,1674年にはついにラーイガルで即位して,マハーラーシュトラに独立ヒンドゥー王国を樹立したのである。シヴァージーの息子はアウラングゼーブに殺されたが,孫シャーフーはアウラングゼーブの死により釈放され,シヴァージー3世となる。しかし実権はしだいにペーシュワー(宰相)に移り,シャーフーの死(1749)以後は,マラータ連盟の中心はペーシュワの家系に握られた(マラータ連盟)。第2代ペーシュワー=バージ=ラーオ1世(1720〜40)が,マラータ連盟の体制をつくりあげた。領土が拡大したことによって,ペーシュワーは領土を部下のシンディアノホールカル,ガエクワードなどに任せざるを得なくなった。これらの指導者たちが結成したのがマラータ連盟であり,パージ=ラーオ1世と2世のころには連盟をぺーシュワーが強固に掌握していた。1761年,パーニーパットの戦い以後,ペーシュワーの力も弱まり,内部分裂は深刻になった。

マラータ戦争】1775〜82,1803〜05,1817〜19の3次にわたり,イギリスとのあいだに戦われた。第1次はマラータ連盟の内紛がイギリスに乗じる隙を与えたものだが,どちらも決定的勝利は得られなかった。第2次もペーシュワーがイギリスの助力によって失われかけた権力を回復せんとしたのに対し,ボーンスレやシンディアなどがこれを認めず戦いとなり,イギリスはマラータの不統一によって,各個に勝利をおさめた。第3次は,この結果に不満足なペーシュワー以下が統一して反英に立ち上がったが,すでに遅くイギリスの完全な勝利に終わった。この結果ペーシュワーは廃止されて,北インドのビトゥールに流されて年金生活を送ることになり,マラータ連盟は崩壊した。これによってイギリスは,インドの最大の実力者,反英勢力を崩壊せしめたことになり,イギリスのインド征服は最後の仕上げが残されるのみになった。

【行政・軍事制度】シヴァージーは,ヒンドゥーとイスラームの混合である行政制度,軍事制度を樹立した。王はペーシュワーを首相とする8人の大臣によって補佐される。行政法は,すべてヒンドゥー法(シャーストラ)によった。民事は,村落の長老会議(パンチャーヤト)により,慣習法で裁判された。税は,パテルと呼ばれる王の役人が,直接に農民から総生産物の3分の1の割合で徴収した。マラータの軍事組織もシヴァージーがつくった。特徴は,軽装備で山岳地帯などのゲリラ戦に適していることである。さらに山岳地帯では砦が重要なため,戦略地点に砦を設けて,そこに駐屯補給するシステムを発達させた。兵士は,王直々の試験により採用され,国庫から現金,その他で俸給が支払われて,土地に封ずることはしなかった。軍は騎兵と歩兵に主として分かれていたが,相当数の艦船をコラバに停泊させていて,富裕なムガル商船の掠奪などを行ったことも知られている。

〔参考文献〕Duff.G.『History of Marathas』