●マラエ
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タヒチ語 ポリネシアにおける土着神の野外祭儀場で,一部では集会場の機能を兼有した。今日,タヒチを中心とするフランス領ポリネシアおよびクック諸島などに遺跡が分布する。その構築型式は時代・地域によりさまざまであるが,基本的には地面に石を並べて囲った長方形の敷地の一端に,アフと呼ばれる石造祭壇を設けたものである。祭神は創造神タアロアを筆頭に多数あり,マラエの目的によりその一柱もしくは複数を同時にまつった。また氏族単位で祖霊をまつる小規模なマラエも存在した。ただしいずれにおいても,神霊がマラエに常在するのでなく,祭祀に先立つ降神の儀によって,祭壇上の直立石または木製の依代(よりしろ)に一時的に霊が宿るものとされていた。ともあれ,とくにソサエティ諸島にあっては,年代によるマラエの型式変化,格式および機能の分化が画然としている。【型式分類】ソサエティ諸島で最初にマラエがつくられたのは,ピーター=ベルウッドによれば700年ごろだという。初期のものは,地面に小石を並べるか低い石造祭壇を設けて,ここに1個ないし3個の直立石を置いたものであった。ときには重要な参会者の定位置が定まっていて,その場所に背もたれ用の石が配置されていた。こうした単純なマラエは,内陸の谷間や台地に多くみられるので,1933年,ケネス=エモリーは[1]内陸型と命名し,より大規模で石塀と階状の祭壇をもつ [2]沿岸型と区別した。沿岸型の祭壇上にはもはや直立石は置かれていない。沿岸型マラエで最大のものは,タヒチ島パパラ地区の女王プレアがその息子テリイレレのために1766〜68年に建立したマハイアテアのマラエである。これは110m×80mほどの敷地の一方に,高さ15mほどの10段(異説では11段)の祭壇が設けられたものであった。またエモリーは,2段式の祭壇上に直立石をもつタイプを[3]中間型とした。以上の3タイプのほか,同じソサエティ諸島でも西方の風下群島では大きな珊瑚岩の平板を立てて長方形の囲いをつくり,ここに土石を入れて満たした祭壇をもつものが普通である。
【格式および機能】ソサエティ諸島のマラエは,[1]汎国家的マラエ[2]国家的マラエ[3]家族的マラエの3格式に分類される。[1]はライアテア島オポア村にあるタプタプアテアのマラエで,15〜16世紀までは島の国家的マラエにすぎなかったが,タアロア神から戦いの神で地の神でもあるオロ神へと祭神が変わってからは,一帯の総本山的存在となった。[2]は群雄割拠していた首長たちの所有するもので,前述のマハイアテアもこれである。この格のマラエにおいては,建造および儀式の際に必ず人身の供儀を必要とした。誰を殺すかは首長がそのつど指名した。[3]は家族の祖霊や特別の職業の祖霊をまつるものであり,祖先のマラエ,呪術師のマラエ,医師のマラエ,カヌー大工のマラエ,漁師のマラエなどそれぞれ祭神が異なっていた。
【マルケサス諸島】マルケサスのマラエは個々に工夫が凝らしてあり,複雑な構造をもつものが少なくない。たとえば集会所を兼ねたトフアと呼ばれるものでは,王・神官・戦士・年長の男性・女性と幼児など集団内での階層別に居場所が定められ,相互に入り組んだ形で壇が設けられていた。またこの諸島では,他村と戦い,敵を殺して食人する習慣があったが,祭儀場に首切り用の枕石や解体場・炉などが併設されている例もある。マラエを意味する呼称は諸島南部のヒバオア島,ファツヒバ島などではメアエ,北部のウアフカ島,ウアポウ島では全体をさしてアフである。また元来は住居用石壇をさす“パエパエ”という語が混用されていることもある。
【その他の島】ツアモツ諸島には,一般にタヒチの内陸型に相当するものが残されマラエと呼ばれているし,チリ領のイースター島では,巨石像モアイをもつものがマルケサス諸島北部と同じくアフと呼ばれている。またハワイのヘイアウもマラエと同じ流れをくむものである。