●マラー
ヨーロッパ フランス共和国 AD1743 フランス王国
1743〜93 フランス革命の政治家。ヌシャテルのブードリの生まれ。父はサルディニア出身の医師。ボルドー・パリで医学の研究を行い,1767年ロンドンで開業。1774年唯物論的な『奴隷の鎖』という著書を出版。翌年,聖アンドリューズ大学に医学教授として迎えられ,1777年にはアルトワ伯警固隊付医師になった。光学,電気に関する論考がフランクリンなどの注意を惹いたが,ニュートンを批判しているため,科学アカデミーには入れなかったばかりか侍医も辞さざるをえなくなった。1788年から疥癬にかかり温浴による治療を始めた。バスティーユ牢獄占拠を讃え,自ら人権宣言私案を発表。9月から日刊紙『人民の友』を発刊したが,ネッケルの投機行為やバィイ市長の食糧政策の怠惰をこっぴどく非難したため,投獄され(1789年10〜11月)たり,ロンドンに逃れ(1791年12月〜1792年5月)たりした。早くも1790年から人民の再蜂起と革命独裁の必要性をさけび,国王を信用せず共和主義への傾斜を示した。立法議会には落選したが,連盟兵の前線出発前に,囚人が脱獄してパリの残留家族を殺害しないようにと訴え,9月2日の大虐殺のひきがねをひいたといわれる。国民公会にパリ県から選ばれ山岳派の中でも最左翼に位置し,ジロンド派の国防委員会の手ぬるさを攻撃,デュームリエなど前線軍将軍の失態をいちはやく,パリ・サン=キュロットに通報。ジロンド派は9月,虐殺の責任者として1793年4月,革命裁判所に告発したが,釈放され,サン=キュロットの歓呼をあびた。6月2日の国民公会包囲時,追放さるべきジロンド派22議員を指定。7月13日,ジロンド派を信奉するシャルロット=コルデーによつて入浴中,刺殺された。遺骸はパンテオンに葬られた(1795年2月に撤去)。彼の死後,ロベスピエールが公安委員会に選ばれ独裁体制に傾斜してゆく。ルシャプリエの労働者団結法に反対はしなかったが,職人・徒弟制の復活をとなえ,小手工業者の自立を理想とした。