●マルムーク朝 マムルークちょう
アフリカ エジプト・アラブ共和国 AD1250 エジプト・イスラム王朝
カイロに本拠をおいたトルコ系マムルークの王朝(1250〜1517)。版図はエジプトばかりでなくシリア,ヒジャーズにまで及んでいる。一般にはこの王朝は,バフリー,マムルーク朝(1250〜1382)とブルジー,マムルーク朝(1382〜1517)の2期に分けられる。バフリー,マムルークの場合には,軍営がバフル(川),つまりナイル川の中之島ローダにあり,ブルジーの場合軍営がブルジュ(塔),つまりカイロの城塞におかれたことになり,この名称が用いられている。1249年にフランス王ルイ9世の率いる第7次十字軍は,エジプト攻略にむかった。これを迎えうったのは,アイユーブ朝のスルターン,アッ=サーリフである。しかし彼は陣中で病死し,それを隠して妃のシャジャラトッ=ドッル(真珠の木の意)が国政を担当した。マムルーク部将バイバルスの活躍もあって十字軍に大勝し,ルイ9世を捕虜としたのちに,この妃が王位についたのは翌1250年のことである。これ以降マムルークの長たちが,実力で政治的権力を握り,王位につく,といったパターンの王朝が二百数十年続くことになる。バフリー,マムルーク朝時代には,現在ソ連領のアラル海東南部フワーリズム地方出身のトルコ部族が主として政権を握り,ブルジー,マムルークの時代には,黒海とカスピ海のあいだにあるチェルカシア出身のチェルケス人が主体であつた。
優れた軍人として養成されるために,中央アジアから売られてきたマムルークたちが,王権の座を容易に自由にしえたのは,その職業軍人としての有能さ,組織的機動力といった理由のほかに,当時の政治的状況によるところも大きい。十字軍のたび重なる侵攻についで,1258年にはフラグ指揮のモンゴル軍がバグダードを陥落させ,さらに西の方をうかがっていた。常勝のモンゴル軍に土をつけ,西側を守ったバイバルスはのちに第3代スルターンとなるが,時代はまさに優れた武将の存在を必要としていたのである。
マムルーク朝にとっての外的脅威であるモンゴル軍の侵攻を阻止し,同時に内政の充実をはかってこの王朝の基礎を作ったのは,このバイバルスであった。その後,彼の家臣カラーウーンは,バイバルスからの遺産をさらに充実させ,この王朝の黄金期を準備した。
徹底的な実力主義で世襲制をきらうこの王朝で,一族の者の政権維持に成功したカラーウーン家は,シリアの十字軍の追出しに成功し,もっぱら内政の実をあげて王朝の花を咲かせている。異国出身の小数軍人グループによる支配は,政権担当者に巧妙な〈あめと笞〉の政策の実施を要求した。実力のない支配者はすぐに他の者にとって代わられるという宿命を課せられた彼らは,対立者と権力,陰謀のかぎりをつくして戦う反面,民心をつなぎとめるために相応の善政をしく必要があった。アッバース朝カリフの後裔を擁立したのもそのためであるが,彼らの常套手段は宗教を保護する態度をとってモスク等を建設し,学術を奨励してウラマーの支持をとりつけることにあった。このような政策のため,一部の宗教学者たちは,一定の安定を享受することができた。またこの時代には,依然としてエジプトは東西貿易の中心であったため,富裕な商人が輩出している。
カラーウーン家は,自らの力の安定のためチェルケス人マムルークを重用したが,のちに権力は彼らの手中に帰し,ブルジー,マムルーク朝に代わるが,相次ぐ軍闘抗争に治安は乱れ,折から流行したペストもあずかって王朝の力は低下していく。そして1498年のバスコ・ダ・ガマによるインド航路発見は,王朝の命脈を断つに十分な事件であった。紅海からエジプトをへてヴェネチアに結ばれる国際的商業路は,紅海の入口で断たれ,経済力が急速に衰え,それがまた内訌を激化させる原因となった。弱体化を見てとったオスマーン朝は1516年,シリアを併合し,翌年にマムルーク朝の本拠カイロを手中に入れている。