●マムルーク
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マムルークとは,アラビア語で〈所有された者〉を意味し,奴隷をさす。クルアーンには〈汝等の右手が所有する者〉といった表現がよく用いられている。この語はハディースにもよく用いられ,次のような文脈でみかけられる。〈非人間的な奴隷の扱いをする者には,天国の門は閉ざされているであろう。〉〈奴隷が礼拝をするとき,彼は汝の兄弟である。〉ところで歴史的にはマムルークとは,アラブ系,黒人を除く白人の奴隷をさしている。ただし奴隷といっても,以下の説明で明らかにされるように,イスラーム世界の場合は,けっしてアメリカの黒人奴隷の場合のように,いつまでも主人の所有物として隷属のくびきの下にあるわけではなかった。イスラームは,奴隷制の廃止まで宣言できなかったが,その解放を最も大きな美徳としていると同時に,数世代たてば自動的にその身分から逃れられる仕組みをつくりあげている。西欧の場合,奴隷が君侯になるといった事柄はまずありえなかったであろうが,イスラーム世界においては事情はたいへん異なっている。このあたりの特殊性については,十分な考慮が必要であろう。
アッバース朝の第8代カリフ,ムアタスィム(在位833〜842)は,当時台頭して権力をもちはじめたペルシア系家臣たちをおさえるため,中央アジアからトルコ人奴隷を数多く買い入れ,親衛隊をつくった。これが以後長らく,中東世界で重要な地位を占めるマムルーク兵士の登場である。彼らは当初,カリフに忠誠を誓い,カリフもそれに報いて彼らを解放して軍の司令官,地方の太守などに任命した。しかしその後,彼らは勢力を拡大し,カリフの廃位,任命までをも自由に行うようになった。アッバース朝後期には,中央では彼らが互いに勢力争いをし,地方ではその一部が独立を狙うといった状態となり,カリフは名ばかりの存在となって,王朝は衰退の一途をたどり,結局モンゴルによって命脈を絶たれている。
アッバース朝以降も,独立して自らの地位を守る支配者たちは,軍事的安定のために絶えずマムルークを必要とした。彼らの相対的地位は,徐々に上昇する一方だったのである。エジプトのトゥールーン朝の創始者イブン・トゥールーンは,数万のマムルークを購って直属の親衛隊をつくり,アッバース朝からの独立に成功した。その後のファーティマ朝は,初期にはベルベル人,スーダーン人の軍隊に頼っていたが,第5代カリフ以降徐々にマムルークが主力となっていった。アイユーブ朝の場合も同様で,初代のスルターン,サラーフッ=ディーンは,自らの勢力の安定と同時に,十字軍の脅威と対処するためにもマムルークの獲得,訓練に積極的にならざるをえなかった。ちなみにイェルサレム奪回の作戦で,十字軍を悩ませ,軍功をあげているのはこのマムルーク軍団である。
支配者たちが自らの地位を安定させ,外敵からの脅威に対処するために欠かせなかったマムルークたちは,当初給金を支給されていたが,のちにイクターを与えられ,その土地に対する徴税権をもつという形で地位を安定させていった。その結果彼らはマムルーク王朝を築き,260余年にわたってエジプト,シリアの王者として君臨するようになるのである。
その後この王朝は,オスマン・トルコに併合されるが,オスマン・トルコ自体軍事的にはマムルークに大幅に依存しており,とりわけキリスト教徒の子弟を訓練してつくりあげたイェニチェリ軍団は,各地で勇名をはせている。またエジプトにおいても,併合後長らく実質的な権力を掌握していたのは,マムルークたちであった。
奴隷あがりの白人兵士たちは,このように長らく,中東世界で指導的な役割を果たしている。被征服者に征服されたアラブという主題は,歴史的に重要な問題点をはらんでいるが,ここでいう〈奴隷〉が,ほかの文化圏でのそれとたいへん異質である点は,むしろ今後,さまざまな角度から解明されなければなるまい。