●マニュファクチュア(日本)
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工場制手工業のことで,manu(手の)-facture(工場)の意から,分業にもとづく協業のこと。イギリスにおけるように,毛織物工場において広範なマニュファクチュアの存在があったところに産業革命が行われて,機械制大工業へ発展したとされる。したがって,マニュファクチュアでは,作業は道具機で行われるが,これが機械に代わることで資本制生産へ転化する。【マニュファクチュア論争】服部之総(しそう)が『日本資本主義発達史講座』中の論文「明治維新の革命及び反革命」(1933年2月),および「歴史科学」連載の論稿(のちに「維新史方法上の諸問題」と命名。1933年4〜7月)で旧著『明治維新史』の自己批判とともに,幕末の生産段階を〈厳密な意味におけるマニュファクチュア時代〉とした点をめぐって論争がおこった。服部説のねらいは,中国が半植民地化されたのに,日本が植民地化されなかったのはなぜか,という点にあった。服部は〈日本をとりまく列強の勢力が均衡していたため〉としていたが撤回,マニュファクチュアの存在の有無に求めた。
1853年(嘉永6)ペリー来航につづく開港前の段階が「厳マニュ時代」かどうかは,土屋喬雄が実証分析して,問屋制家内工業が支配的であったとして批判し,平野義太郎も,服部のとりあげたマニュは,藩など「上から」の育成になるものとして批判した。その後,大塚久雄の理論的影響下にあって,信夫清三郎や豊田四郎により「分散マニュの理論」として提起された。〈「分散マニュ」は「集中マニュ」(典型的マニュ)に対比されるが,商業資本を頂点とする家内労働者群に対する分業にもとづく協業を意味する〉とした。戦後,分散マニュ論は提起者自身によって撤回されるが,作業場を欠いたマニュという点に難点もあり,マニュ段階をなすものではないとされ,厳マニュ論を補強できず,崩壊した。一方,藤田五郎は,〈日本では,小生産者より上昇・転化した豪農マニュや,前期的な問屋マニュの段階という後進国であったため,維新が封建反動=絶対主義へ体系づけられた〉とした。
【幕末の経済段階】服部が絶対主義成立とマニュ段階を関連させていたのに対し,堀江英一は自ら分散マニュ論を撤回して手工業とマニュの中間に小営業段階をさし入れ,幕末享保〜明治10年代を想定,〈マニュ段階を明治20年代から〉とした。楫西光速は〈マニュは[1]作業場がじょじょに分業を採用し,資本家的単純協業となる場合,[2]問屋制家内工業の最高の発展段階としての資本家的家内労働から形成される〉とした。そして,〈[2]の道も保守・反動性の面だけでみず,小営業の分解によってマニュへの道をたどる〉と,幕末をこの段階に位置づけた。そして楫西は綿業と絹業を検討,〈一般に資本制家内労働の形成するものがみられるのみ〉とした。そして,〈マニュは明治20年前後を創始するが,移植による機械制工業が確立ないし勃興するこの時期は,古典的な意味での「厳マニュ時代」を形成するものではない〉とした。なお,服部の提起について,石井孝は〈中国との経済段階の差はなく,日本は中国の反植民地化闘争の恩恵を受けた〉とした。
【綿と絹のマニュファクチュア】知多綿織物業の場合,古来さらし木綿の産地で,尾張藩の保護もあり,嘉永年間に1カ年40万〜50万反に達したが,綿商に支配されていた。いずれの農家も綿作をしてこれを繰り綿とし,さらに打綿とし糸車で紡績し,それで白木綿を織り,これを綿替屋と称する木綿商に売り,または綿と交換して紡織した。維新後,三河ガラ紡の発達と官立愛知紡績所の影響を受け,バッタン機の採用で1898年(明治30)前後からマニュ経営が現れた。一方,幕末西陣絹織物業の場合,非常にまれな例として10機(はた)で織ってその作業場で分業と協業を行うマニュがあるほかは,2〜3機で部分諸工程を専業者に行わさせる小営業が支配的でその下に賃機(機を有料貸出される)が広く隷属していた。維新後,京都はバッタン・ジャカードの導入地として1890年,川西甚兵衛工場は114人も使うマニュを経営した。
〔参考文献〕楫西光速『日本における産業資本の形成』1949,御茶の水書房