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●マニ教 マニきょう

アジア イラン・イスラム共和国 AD 

 3世紀初め,イラン人マニによって創始された宗教。マニは216/7年に南バビロニアのナフル=クター州のマルディヌ村に生まれた。父はハマダーン出身のファータク(Fatak)といい,母はアルサケス朝の王族の血を引いていたといわれる。当時のメソポタミア地域には,多くの人種や民族が混住し,以前からグノスティックないし儀礼主義的宗教と同時に,キリスト教やユダヤ教,ゾロアスター教が信仰されていた。彼の父もムグタシラと呼ばれる教団に属しており,彼自身もその教団に属していたといわれるが,このムグタシラ教団がいかなる教団であったかは議論の別れるところである。彼は,マルキオンやバシリデスの主知派的教説に興味を引かれ,キリスト教徒たちとも交渉をもち,12歳のときにすでに天啓を得たといわれている。さらにまた24歳のときに再度の天啓を受け,ここに真実の宗教を説く使命に生きることを決意したといわれる。彼のこの新しい宗教は242年にササン朝の皇帝として即位したシャープール1世によって信奉されたといわれるが,彼は10年後,古来からのゾロアスター教に復し,マニは故国イランから追放され,遠くインドのカシミールにいたり,さらにチベットやトルキスタン方面をさすらったという。ササン朝のヴァフラーム1世が即位すると,彼はイランに帰ったが,ゾロアスター教の祭司たちに排斥され,捕えられて,276年斬首刑に処された。一説には,生きながら皮膚を剥がれ,その皮膚には藁がつめられ,グンデ=シャープールの町の城門で十字架にかけられたともいわれている。

 このように,マニの教えは,イラン国内でこそ禁止の厄に遇ったが,国外では長く宗教的勢力を保持した。東方では,中国の唐の則天武后の694年に初めて入ってきたといわれるが,その後,トカラ地方からマニ教教師のくるものが多く,マニ教寺院も建設された。また,北方遊牧民のウイグル人の間には,マニ教の熱烈な信者が多く,あたかも国教の観があった。西方では,ローマ帝国内のシリア,パレスティナ,北アフリカ方面に伝播し,だいたい4〜5世紀ごろが最盛とみられるが,異端的キリスト教徒カタリ派,アルビゲンシス派などはマニ教の影響を大きく受けている。また,聖アウグスティヌスが,もとはマニ教徒であったことは有名な話である。

 さて,このマニの教えであるが,彼は,多数の著書を残したが,完全なものは伝わらず,その表題と内容が教外の書物から知られるのみである。しかし,聖アウグスティヌスをはじめとするキリスト教教父のマニ教攻撃,ないし批判の間接的資料やイスラーム教学者の著書によって全貌を知りうる。また,今世紀の初めにおけるヨーロッパ人の中央アジア探検の結果,トゥルファンその他の地で多数のマニ教自体の教本が発見された。また,エジプトにおいてもコプト語文献が発見され,最近,ギリシア語文献も発見され,各方面からの研究が行われるようになった。これらの文献によると,マニ教は,ゾロアスター教と同じく善悪の二元教であるが,その純粋性においてさらに徹底させたものと考えられる。善と悪,光と闇の存在は永遠に対立し,他に還元しえない二原理,宇宙生成の根拠とみられる。神は前者の主,悪魔は後者の主であり,世界の創造とは,この善悪,光と闇の闘争によるものとされる。しかし,ゾロアスター教が究極的に善神の悪神服従により善美な世界を現出させる帰一的な観念を示すのに対して,マニ教の善悪の相反はけっして合一することはない。また,この世界創造は,小世界である人間形成にも準じて考えられ,この相克的な二元論は,人間のなかに存在する善魂と悪魂であるとされる。そして,こうして創造された世界は終極的には崩壊し,善と悪は最初の状態にもどる。この世界の終末において,罪人は地獄に堕ち,選ばれた者たちは天上に行く。以上に述べた簡単な記述によってもわかるように,マニの教えは,ゾロアスター教の二元論・キリスト教の終末論・グノーシスの観念などがいりまざった,混合主義的宗教であったということが理解されるであろう。