●マテオ=リッチ
ヨーロッパ イタリア共和国 AD1552 両シチリア王国
1552〜1610(嘉靖31〜万暦38)中国名は利瑪竇(りまとう)。イタリア生まれのイエズス会宣教師で,中国開教の祖といわれ,教義書・科学書を中心に多数の漢文著述がある。1571年イエズス会に入会し,のちイエズス会立のローマ学院に入る。ここでグレゴリオ暦の編集者クラヴィウス(1537〜1612)の授業を受けた。1577年海外布教を志願して許され,1578年ゴアに到着した。ヴァリニャノの命で1582年(万暦10)マカオにいたり,さきにここにきていたルッジェリ(中国名羅名堅,1543〜1607)とともに中国内地入国をめざした。おそらく異国の珍奇な機械(置時計・プリズム)をもった僧侶の噂が広東ですでに有名になっていたためであろうと思われるが,1583年(万暦11)リッチとルッジェリは両広総督の当時の治所であった肇慶に当局から呼ばれ,この地に定住する正式の許可が与えられた。やがて彼らは洋風2階建の住院を立てた。ルッジェリは1588年(万暦16)にヨーロッパに去ったので,以後彼は一人で布教にあたった。中国の指導層である読書人を入教させる目的で肇慶に滞在した6年間に,読書人の興味をひきそうな西洋の学問や儀器類を積極的に使った。1584年(万暦12)に漢文による最初の世界地図が公刊されたのはその現れである。1589年(万暦17)地方当局より住院が没収されたので韶州に移った。初め彼らは頭髪をそり,仏僧風の衣服を着ていたが,中国では仏僧が敬意を払われていないことを知り,1595年(万暦23)韶州を後にして北上するさいには蓄髪し,読書人風の絹服を着ていた。南昌に進出し,ここで友情に関する書『交友論』を著す。1598年(万暦26)南京をへて北京にいったん入ったが定住を許されず,南下して1599年(万暦27)南京に赴いた。南京の高官たちの信任を得,その紹介状をもらって,1600年(万暦28)北京入りを企てたが,中途で天津に抑留された。しかし置時計を献上するためにやってきた外国人に関心をもった万暦帝によって1601年(万暦29)初頭入京を許され,ついには住院を建てることも認められた。1602年(万暦30)世界地図である『坤輿万国全図』公刊。1607年(万暦35)『幾何原本』出版。1610年(万暦38)死亡するや,皇帝は北京阜城(ふじょう)門外柵欄(さくらん)の地に建物つきの墓地を下賜した。
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