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●末法思想 まっぽうしそう

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釈迦の入滅を基点とする仏教の歴史観。インドで成立した法滅尽の思想と正法・像法の考え方が、中国仏教において末法を加えた正・像・末の三時説として確立した思想。時代の下るにつれて仏の教えがしだいに衰え、仏法滅尽の世が訪れるとされる。すなわち、最初の正法の時代には教・行・証の三法がそなわり、釈迦の教えがよく行われる。

 次の像法の時代には教・行があるが証果が得られなくなる。それを過ぎると教えのみがあり、行も証もなくなった末法の時代となり、社会に混乱がおこるとする。この正・像・末三時の期間については、正法500年・像法500年、正法500年・像法1,000年、正法1,000年・像法500年、正法1,000年・像法1,000年の4説が諸経典にみえる。末法については、一万年とか万年とするものがあるが、期間を限定しない経典も多い。

 中国の文献で、末法思想を記す最古のものは、558年(永定2)成立した慧思の「南岳思禅師立誓願文」で、正法500年・像法1,000年・末法万年と年限を決定している。このころ、那連提耶舎により、インドの法滅尽思想を集大成した『大集経』が漢訳されている。その月蔵分には、釈迦滅後2,500年の仏教の盛衰を500年に区切って表した五堅固説(解説堅固・禅定堅固・多聞堅固・造寺堅固・闘諍堅固)が説かれていて、末法思想展開の契機となった。

 574年(建徳3)、北周武帝による廃仏毀釈は末法意識をより切実なものとした。また人々の末法の自覚は新しい信仰を生むことにもなり、隋代の初め、信行は釈迦入滅後の仏教を三階に分け、末法を第三階の時とする三階教を弘めた。唐の道釈・善導は、浄土教のみが末法相応の教えとして存在すると主張し、日本の源信・法然に影響を与え、法相宗窺基により正・像・末三時の内容規定が行われるにいたった。中国には、河北省房山以下各地に経文を石に刻した石経が残るが、これは末法時の法滅に備えるためである。

 日本においては、正・像・末の三時思想は奈良時代に経説としてすでにみられるが、仏法興隆の機運盛んであったことより普及しなかった。最澄は、自己の時代を像法末期と受け取り、法華流布の時期を末法に求め、その論拠を『法華経』安楽品の「末世法滅の時」の文に置いた。『法華経』の末法・末世・悪世等の語は、三時最後の末法と同義語とされ、『法華経』は末法相応の経典とされた。鎌倉新宗派の祖師たちが最澄撰として引用する『末法灯明記』は、末法の現実に即した仏教を説くが、院政期中ごろの偽作とする説が有力である。源信の『往生要集』は、末法思想と浄土教信仰を結びつけ人々の精神生活に大きな影響を及ぼした。

 平安時代中期より、釈迦の入滅時を前949年、正法・像法各1,000年とし、1052年(永承7)末法を迎えるとの説が広く行われた。『扶桑略記』同年1月26日条に〈今年始めて末法に入る〉とみえるが、この年以降を末法とする意識は、古代国家の崩壊過程進行により生み出された社会・政治情勢の不安をいっそう深刻なものとした。当時の貴族の日記は、現実生活のなかでの未法意識をよく伝えている。藤原道長金峯山埋経はよく知られているが、瓦経・経筒などにも「末法」の語が記されており、末法思想の地方・民間への滲透が窺える。

 ことに、院政期から鎌倉期にかけての武士・僧兵らの横暴、相つづく天災・戦乱・飢饉により、時代が経典に説かれる末法の様相と一致したことは、人々に末法の到来を現実のものと意識させた。末法到来の危機感は、末法意識を基底にした仏教の展開を促すことにもなり、法然は称名念仏をすすめ、その弟子親鸞は、絶対他力を強調した。日蓮は末法に得脱するのには『法華経』の題目を唱えること以外にないと説いた。これに対して道元は、仏教に正・像・末を立てることを一つの方便にすぎないと、末法仏教を批判した。

〔参考文献〕数江教一『日本の末法思想』1961、弘文堂

小沢富夫『末法と末世の思想』1974、雄山閣


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