●松尾芭蕉 まつおばしょう
アジア 日本 AD1644 江戸時代
1644〜94(正保1〜元禄7)江戸前期の俳人。名は宗房(むねふさ),幼少年時の名は金作,通称甚七郎。俳号は,初め本名を用いたが,30代に入って桃青(とうせい),39歳からは芭蕉と改めた。伊賀上野赤坂町(現在の三重県上野市内)に生まれた。父は松尾与左衛門,藤堂藩の無足人(むそくにん)階級に属した。金作は,当時庶民のあいだにまで流行が及んでいた貞門俳諧に魅せられ,1662年(寛文2)19歳の年末には,〈廿九日立春なれば 春や来し年や行きけん小晦日〉の句を作るまでになっていた。このころ藤堂新七郎家に召しかかえられたが,若君良忠(蝉吟と号した)も俳諧愛好者であった。蝉吟は1666年(寛文6)に病死したが,宗房の作句活動は衰えることはなかった。寛文末年になると,貞門俳諧はしだいに停滞し,時代の進展に対応した新しい俳風が求められるようになった。宗房は,この時代の動向を察知し,次期作風展開の新天地として江戸に着目し,1672年(寛文12)19歳の春,上野を出て東下した。江戸では本郷・浜町・本所高橋などを転々と移居しながら,苦しい生活の中に俳諧の道を探求しつづけた。1675年(延宝3)32歳の5月には,大徳院で興行した大坂の西山宗因東下歓迎の百韻俳諧に桃青の号で参加し,談林新風の作者としての存在を示した。翌年には信章(素堂)とつくった『江戸両吟集』200韻連句を刊行,1678年(延宝6)には信章・信徳と『江戸三吟』300韻の連句をつくって刊行した。そのほか延宝年間を通して彼は談林調俳人として盛んな作句活動をつづけている。しかし現実の庶民生活の日常性のレベルでの享楽的な現実謳歌の談林俳諧はやがて行きづまるにいたった。その状態を身をもって感知した桃青は,1680年(延宝8)37歳の冬,江戸市中の生活を棄てて隅田川東岸の深川に居を移した。ここで談林俳風を超克するために漢詩文の摂取の必要なことを見きわめて,杜甫・李白詩文,『荘子』を読み,さらに禅を深川臨川庵の仏頂和尚について修業した。1681年(天和1)秋には門人李下から芭蕉の株を贈られて庵の庭に植え,そこから草庵は“芭蕉庵”と呼ばれ,庵主自らも“芭蕉”と号するにいたった。翌年冬12月江戸の大火で芭蕉庵も焼かれるが,漢詩文調による天和調作風の展開をさらに進め,1683年(天和3)6月には句集『みなし栗』を刊行した。同月20日には郷里の母が死去した。これを弔い,かつしだいに行きづまりつつあった天和調作風を超克するために,再建後まもない芭蕉庵を棄てて,彼は1684年(貞享1)41歳の8月中旬に『野ざらし紀行』の旅に出た。伊勢・伊賀・大和・山城・近江・美濃を巡り,冬名古屋に入り,ここで同地の新進俳人たちと出会って,彼らを連衆として『冬の日』五歌仙連句をつくり上げた。この作品によって,天和調を超克した芭蕉独自の作風“蕉風”が樹立された。翌年4月末,木曽路・甲州路を経て江戸に帰着した。貞享年間は新しい作風へと江戸の連衆を指導していたが,1687年(貞享4)には,さらに高く蕉風を進展させるためにまた旅へと志向し,8月には『鹿島紀行』の旅,10月には『笈の小文』の旅へ出立した。野ざらしの旅のときとほぼ同じ経路をたどって,名古屋の門人たちと『昿野』の作風を展開した。翌年8月木曽を経て江戸に帰り,『更科紀行』を書く。なお〈漂泊の思ひやまず〉,翌1689年(元禄2)3月『おくのほそ道』の旅に出た。8月下旬大垣着,9月6日伊勢へ向かう。彼はその後も京・湖南などに滞在し,珍碩・去来・凡兆らを指導して,『ひさご』『猿蓑』の作風を展開した。1691年(元禄4)10月末に江戸に帰り,翌年5月には再興成った芭蕉庵に入った。以後さらに作風の新展開にその全存在をかけていった。1693年(元禄6)初冬“軽み”の作風に開眼し,『炭俵』『続猿蓑』所収の歌仙をはじめとして多くの発句・連句を作っていった。その成果をもって上方各地の門人らを指導しようとして1694年(元禄7)5月江戸を発ったが,各地の指導中,大坂で発病し,〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉の句を遺して10月12日に没した。時に51歳。
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