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●町衆 まちしゅう

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 ちょうしゅうとも読む。中世都市の中に生じた自治的な町人の組織。大体南北朝内乱以後,地方とくに畿内近国農村の商品の取引市場の発展に伴い,商業都市が勃興するようになって町と呼ばれ,京都のようにミヤコ(宮處)からマチへの変質の中で成立したものである。はじめは町人といっていたが,応仁文明の乱で焦土と化した京都の復興を支えた町々の商・手工業者,所在の町々の住民が,まとまって地域的結合をつくった。

 この古い条坊の最小単位の一町はその四方を街路で囲まれた方一町の区画であったが,新しい町は街路を挟んだ向い側と一つ町をつくることになり,亀甲型をつくっている。そのような町の担い手が町衆である。生活共同組織の単位となると,その住む住民は「ちょうにん」または「ちょうの人」と呼ばれ,さらに応仁・文明の乱を通じて,この町は「ちょうのかこい」をつくるなどして自衛的な団体になると,それを構成する人が定町衆・二条衆・六町衆などと町名を冠して町衆と呼ばれた。その中心は店屋を構えた商業者・手工業者であるが,さらにその町に住む下級武家・公家衆・土倉衆を含んだ。室町時代のいわゆる民衆芸能といわれる風流踊・小歌などの発達は公家文化と接し,土倉などの富力を背景とする町衆を母体としていた。とくに法華衆の信者に京都の町衆が多く,1532年(天文1)一向一揆に対抗して法華一揆の主体となった。そしてもっぱら一向一揆と対決し,山科本願寺を焼いて,京都の支配権を確立し,洛中地子銭の不沙汰を敢行した。

 法華一揆は衝動的な蜂起ではなく町の自治体制をつくり上げた。1536年(天文5)山門の迫害で法華宗徒は京都を退転したが,上京が町組を成立させた。1573年(天正元)信長は入京して市民の安全を保障したかわりに,上・下両京惣代を要求し,さらにこれを拒絶した上京の町組を焼打している。これは明らかに町衆への対抗を示し,町衆の主体性をつぶすために,防犯と租税の義務を負わせ,封建支配の末端にくみこもうとしていた。その結果町衆とかわって町人という身分的名称が一般化した。1582年以来5年間ぐらいは京都を法華一揆が支配していたがここで完全に屈伏させられた。しかし織田信長や豊臣秀吉の出現によって全国に専制支配が行われ,町衆の組織も5人組・10人組という形となって,先述のような2機能を担わせられることとなった。

 町組の形成の主体となった商・手工業者の町衆たちは座をなして特権や保護を守り,総代となった土倉衆の系譜はややおもむきを異にしている。町衆化した町衆の座頭職の買収という形でこれを弱めることが権力にとっては必要不可欠なことであったが,そう簡単に町衆のエネルギーの結集をつぶすことはできなかった。

 応仁・文明の乱の後に,祇園会の山鉾を再び目にしたのは1500年(明応9)のことである。乱の勃発以前から山鉾の姿は耳目を動かしていた。1496年(明応5)再興計画がおこり4年後に実現したが,その基礎は茶寄合・連歌会・踊などのサークルが組織化の母胎となっていた。

 1533年(天文2)6月に法華一揆が京中を支配するに至ったとき,幕府は山門の訴を理由として,祇園の神事を停止した。すると京の町々の月行事,能は,雑色たちが祇園社に群参して山鉾渡しを要求した。神事は祀社の神事であるが,山鉾の渡御は町々の行事であると区別した。四条通り西側に店舗をもつ町衆たちは祇園会地口銭を出しあって山鉾の渡御を求め,そしてついに作山の趣向を相談しはじめている。このような事実をみると,町衆たちが山鉾渡御の担い手となっていた。

 本来の山鉾巡行は,長刀鉾から船鉾までという形が示すように,消厄除災がその願いそのものであった。しかし京都においては,山門といわれる比叡山延暦寺は京の町の流通に深くかかわっていた。上京・西京の町衆は北野の社寺と親しく,下京の町衆は祇園の社寺と親しかった。これはともに山門の末社末寺であった。

 信長の比叡山延暦寺の焼打ちは,このような京の町の中世的なものを根本から解体させる力となった。おそらく山門にとって京は寺内町とみられていた。しかし焼打ち後,信長は洛中洛外の荘園領主や地主たちに米を拠出させ,それを町に貸付け,将軍天皇の財源とした。これによって天皇の復活と京の町衆掌握をなし,楽市楽座によって一向宗寺内町を解体させた。その反面信長は新寺内町づくり,さらに安土の楽市都市づくりに力をいれた。これによって信長は中世の克服につとめ,一向宗寺内の解体策なども伴って,都の改造につとめた。

 いつでも信長は一揆掃蕩・寺内破却に力を尽した。それに対し一揆側は,信長の楽市令とほとんどかわりのない都市の特権を「大坂並み」として大名領主に認めさせている。建設された寺内は単一の中世惣村が発展して町場化し,大坂の石山本願寺寺内に結びつけられ,「大坂並み」の形成を一つのモットーとしていた。ところが1580年(天正8)「大坂寺内」の解体は,大坂並み体制の中枢崩壊となった。これは個々の寺内,一向一揆との徹底的対決を信長が強めていったことを示す。織田政権を受け継いだ豊臣政権の一向一揆鎮圧対策は,紀州一揆圧伏対策以来一貫した政策で,北伊勢一揆と対決している。1585年(天正13)になると京の町衆に命じて仙洞御所の修築をすすめ,本願寺顕如に大坂の旧地より広大な寺地を大坂中島を与え,比叡山延暦寺の復興を認め,高野山金剛峯寺領を保障する政策をとった。これによって豊臣政権は町衆を自己の政権下の基盤にくみかえたのである。さらに秀吉は天正15年の九州征伐にあたって堺商人たちを陣中に加え,千利休や津田宗及もその中に姿をみせている。そして博多商人を代表する島井宗室・神谷宗堪等にも,千利休とねんごろなつきあい関係があるのを利用して各所で会合をもつ協力を要請した。その上にたって博多復興の支援をおくることで,町衆的なものから町人化へと変質させた。それによって九州を五畿内同前の地域化した。いいかえると大坂つぼの内同然としている。

【町衆の歴史】林屋辰三郎は町衆の意味での京都の町の人の段階づけとして「京戸」→「京童」→「町衆」→「町人」と4段階している。「京戸」は律令制体制下に存在し,律令制が動揺・解体のはじまる10世紀以後「京童」が成立した。そのあと町衆が成立する。そして町衆の時代は,町衆の形成期に見出し,南北朝の内乱より応仁・文明の乱のころ,ついで町衆の初姿として応永期に出てくる。文献には町人(ちょうにん)と仮名書きされ「ちやうの人」などといわれている。そして町衆という呼称は「祇園衆」「二条衆」「室町衆」「六町衆」というように地域名を冠して登場している。それが,そのあとの時代になって「町衆」という名称で登場する。『私心記』によると〈御斎,町衆ヨリナー,町衆御体ニ参リ候〉とかかれているように町衆の名が出てくる。また『言継卿記』には天文17年2月9日条に「町衆」という名称が出てくる。そうした名称の変遷については以上の経緯で明確である。

 1956年(文禄5)7月には男衆連名で町定をつくっている。ところがこれが江戸時代になると,町は町人がつくった町組に対して支配者的意識をもつようになり,かつてのような自治的な面が弱くなり,町人階級がつくられ,これらみな役屋となってしまっている。民主・自由・平等への道を歩む封建的束縛に対して三原則をとくものでなくなっている。以上のようにみてみると町衆は,まだ市民的自由・町組的自由・惣町的自由の基礎をつくりあげた荷担者であるということができる。彼らは定幸に佗び茶を担い旦那の余技・余芸の担い手でもあった。彼らは国際的視野ももっていた。

〔参考文献〕林屋辰三郎『町衆』1964,中央公論社