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●町 まち

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 「ま」は間・「ち」は道・田間の道の略であり,街・坊・区とも書く。[1]田の区画,[2]宮殿・邸宅内の2区画,[3]建物の集まっている場所,[4]都城の条坊制の一つ,[5]市街地を道路で小区分した地域,[6]遊里の内に対してその外,[7]特定の職業に勤める人の居住地域等をさす名称となっている。こうした用語をもっと歴史的に説明したい。

 平安時代中期の『和名類聚抄』には〈町・和名は未知,田区なり〉といい,また〈未知はけだし間道なり,田間の道をいうなり〉とあるように,語源は田を区画する道のことであった。したがって[1]である。ついで古代の都城制とかかわって条坊の坊(まう)と訓じたという例をあげている。平安時代の四天王寺の境内では大方屋など寺務管理の坊舎の並ぶ一角を「政所町(まんどころまち)」と呼んでいる。それに類似した特定の職業の人でつとめる人の集まっている町というのがある。また平安時代中期ごろより店屋の立ち並ぶところを町と称している。京都では新町通りと三条・四条・七条の交叉するところを町と呼んでいる。店屋のことを町と呼んでいる例もある。『魏志倭人伝』によると有無を交易するところが町で,都城制は聖徳太子のつくった四天王寺跡の区画が始まりか,大化改新後は坊ごとに長一人を置く行政単位。『運歩色葉集』をみると持統天皇のときに市とか町があった。律令制の町は市町に市籍をもつ市人の居住区で,市廛では外国からの舶載品や蔵物の放出物資が売買され,商品の変換が行われている。当時の商品は貨幣より穀物・布帛が主であり,都の経済支配の変化によって,海陸の交易運輸の要衝にその中心が移動している。そのほかとして九州の大宰府や国府・駅に町が発達している。平安時代になると奈良では興福寺や東大寺の門前に市がたち,しだいに定住店舗化して荘園やそのほかのところから集まる生産物・舶来品・工芸品の交換市場を形成している。地方では侍を中心とする舘町が成立している。鎌倉は京都を模して都市化している。大町・小町のほかに町屋がつくられた。

 ところで「町」とは,元来,1区画を示す語である。平安京にも四条町等が出現する以前,修理職町・政所町のように町と付された地域はあるにはあったが,それもやはり,四本の道路によって囲まれた一定の地区をさすものであった。

 鎌倉時代になると,京に町通と交差するこれらの町々には,町座と称する多くの商業座があり,京中の一大商業センターを形成していたのであった。その上でこれらの町々に居住した座商を,町人と称したことは注目すべきことである。

 彼らは町通に面して店屋をもち,座を結成していた。これに対して店屋をもたず,また座に属さず行商をする人々を「里商人」と称して自らと区別した。『栄華物語』には「町女」なる語がみられ,蔑如観が伴っている。鎌倉では町人という語は商人を総称したことばではなかった。むしろ町人は町通に居住した商人をさすことばである。町屋の中心は侍を対象にしてすだれをかけている。令制の市町がおとろえて七条・三条・四条が町屋化し,とくに交叉するところが町屋の中心となり,同一業者が同一地点に同業町をつくり町屋を結成している。室町時代中期になると新町筋からほかの地域へと商人の居住地がひろがっている。町も普通名詞となり,土倉や酒屋などの豪商の住人で,これを町人と呼んでいる。

 このころには,地方荘園の産物は特産物を除いては京都には現れず,地方市場か中継地で座商人によって転売された。そのことは地方市場が町となり,ここで逆に京や奈良から工芸品や武具がもち出されている。中央市場の位置の相対的低下がもたらされた。その上に中国より舶載された貨幣が流通に大きな役割を果たし,九州や瀬戸内海沿岸がそのルートとなっている。そのため町にもさまざまな形態が生じたが,なかでも寺門前町の発展と港町の発達は大きなものがあった。その上に領園を形成する戦国大名の城下の発展は大きい。

 17世紀になって,都市の時代に入っている。近世は急速な都市化の時代に入り,中世後期からの名称である「町衆(まちしゅう)」あるいは「ちょうしゅう」の名で呼ばれていたが,しだいに「町人(ちょうにん)」の呼称が一般化し,幕末には「市民(しみん)」とも称されるようになった。町衆は町名を冠し,室町衆・三条町衆と呼ぶ。その中心は棚をかまえた商業者や手工業者で,それに町に住む土倉衆・下級武家衆と家衆を集めてそう称し,庶民文化の荷担者を形成していた。

 応仁の乱後となると,親町・村町という町組制がつくられ,町衆自らが自治的活動の組織としてつくりあげている。いわゆる東山文化などを背負って立った。とくに祇園祭は町衆の祭と評価でき,町衆の信仰は法華宗が強く,盆の送り火である大文字の妙法の字も法華宗の表れである。

 町組が庶民の自治組織として文献上初見されるのは1537年(天文6)のことである。あくまでもこれは初見でこのとき成立したものではない。

 応仁・文明の乱は武士たちだけの戦いでもなかった。農民も都市民も豪族財産を守って闘った。京に生活基盤をもつ人はここを脱出不可能だった。それゆえに京の人々は町衆一族の法華一揆で京の町を戦禍から守った。天文法華の乱に破れたのち町衆たちは,法華宗禁止にもめげず,町組をつくった。町組を構成する町には「月行事」「年寄」と称する町の代表者がいて町の運営にあたっており,町組自治の基底をなす町々において,町人が守るべき町の法度をつくり町内運営にあたっていた。その成立は,1585年(大正13)にみえる。しかしそれに先立ってすでに一町内に重科人がでたときは,その子細を知らなくても連帯責任,総町一同の共通責任でさえあった。

【町屋は粗末】四条坊門町のごとき京の中心街ですら,粗末なところである。田舎上りの人がたまげたのは,一軒一軒の家ではなく長々とつづく家並みであった。そのすべてが板葺きの屋根に石をのせた粗末な建物であった。したがってムラの結界の外から京の町をみると〈京の町を見さいやれ大小路はな,七つ並べて大小路はな〉(田植草紙屋敷と番のうち)とか〈国は京都で三条が町に……店は賑やかに付繁昌〉(日本民謡大観中国篇による)と,かなり都鄙に差があったことが明確になる。そうした町で目につくのは2階建ての家で,これが上層の町衆の家であった。そうした京が1587年(天正15)聚楽第づくりで近世都市化した。秀吉は洛中洛外を区別のため,1591年(天正19)に御土居をつくり,大規模な町割りをしている。諸方に散在した寺院を東京極および安居院付近に集め,寺町・寺の内と称し,1589年(天正17)には遊廓をつくり,柳の廓と呼び,これを内裏に近いゆえに五条西洞院に移している。

 江戸は城下町として町割りを決めている。京の町割りは一様でなく,洛中の三条より高辻のあいだは方一町割りであり,そのほかには西陣地域のようにつくられたものなどがある。京の町は1634年(寛永11)には六角町文書によると京中3万7,313家あったという。人口は17世紀後半,洛中洛外合わせて35万前後とも考えられる。

 1690年(元禄3)1,802の町が京にあった。町という地域社会は室町につくられたもので,南北路に面する堅町,東西路に面する横町という。町組は上京12組,下京8組となっている。町の入口には町木戸が設けられている。

 町には家持ちと借家とがあり,家持ちの町人が半数に満たぬと町の結合が十分でない。町人の自治は[1]触れ伝達,[2]警察業務,[3]戸籍業務,[4]会計業務を行っている。町の式目もでき,町の集合はすべて相談にて相極めるものであった。毎月洛中一町ごとに会所に集まり,天下の法令をよむなどしていたのである。

 以上のごとき町の動きは近世以来あまり変わるところがなかった。

〔参考文献〕守屋毅『京の町人』1980,教育社

川嶋将生『町衆のまち京』1976,柳原書店