50音順    検 索

●枡 ます

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 液体や穀物などの容積を,その口縁一杯に満たすか口縁と平らにかきとるかによって,あるいは内面に付された目盛線などを基準とすることによってはかる器。

 日本において初めて枡の制度が定められたのは640年(舒明天皇12)と『扶桑略記』には伝えられているが,確証はない。『続日本紀』の,702年(大宝1)3月に初めて枡と尺とを天下諸国に分ったという記事が確実なものと考えられる。さらに『養老雑令』によると,この8世紀ごろには大枡と小枡の2種の公定枡があり,大枡は銀・銅・穀物の計量に,その他の計量には小枡が用いられ,その単位は合・升・斗・斛の4種とされたという。大枡の容積は,現在の約4合(1合は約0.8l)に該当するといわれている。また政府は,銅製の原器をつくり,中央においては大蔵省,地方では諸国の国司のもとに常置し,毎年2月に厳重な検定を実施した。こうして国家の財政収納の元である枡の公定を維持することにより,租税の徴収の厳正をはかったのである。律令制度が崩壊するにつれ,国家公定枡制度も混乱をきたした。私人の恣意の枡や官私による不正枡が発生し,平安末期からはその国限りで使用される諸国の国衙の枡が発達したのである。また,荘園の発達に伴い,各荘ごとに荘枡の発生もおこった。こうしたとき,後三条天皇は新立荘園の整理を断行したが,その政策の一環として延久年間(1069〜74年)に国家公定枡を新たに制定した。これがのちにいわれる延久の“宣旨枡”で,平安末期から鎌倉末期にかけて,朝廷を中心として全国的に公定枡として使用された。なお平安末期に発生した各種の荘枡は鎌倉時代になるといよいよ隆盛となり,荘園領主は専らこの枡をもって諸国のそれぞれの荘園から租税の収納を行った。この収納用の荘枡に対し,荘枡より容量の小さい枡は下用枡と称され,支出用に用いられた。南北朝から室町時代にかけて,荘園内部にさまざまな変化が生じ,“宣旨枡”も検定が行われなくなった。この結果,特定の地域だけに通用する地域枡,果ては個人の私用枡が勝手につくられるようになった。同じ1升枡にしても容積が異なるものが,各国・各地ごとに存在する,枡の制度が最も錯乱した時代だったのである。枡の歴史の上で画期となる事柄の一つは,織田信長から豊臣秀吉へという政治過程のなかで,公定枡として統一的に打ち立てられた“京枡”の出現である。まず信長によって武力制覇とともに着手された検地は,秀吉によってさらに全国に拡大展開されたが,この検地に伴う収穫高の決定は当然統一された容積の枡をもって施行しなければならない。このため秀吉は,政治的・経済的に日本最大の都市である京都を舞台に,広くかつ強固な通用圏を形成していた京枡を採用し,全国的にこの容量によって石高を打ち出すよう統一したのである。徳川の開府後,江戸は政治都市・商業都市として急激な膨張を示し,京枡と少し容積を異にする“江戸枡”が発生し諸国に普及した。江戸枡はついに京枡と並んで天下の代表的な枡の地位をうるようになったのであるが,諸制度を整備する必要に迫られた幕府は,1669年(寛文9),京枡を公定枡に指定し,江戸枡以下の諸枡を廃止し“新京枡”の採用を命じた。また,江戸枡座の樽屋と京都秤座の福井を枡座に定めた。ここに,量制の画一的統制が確立したわけである。江戸幕府が崩壊し,明治政府が成立するとまもなく,政府は1875年(明治8)8月「度量衡取締条例」を発布して従来の新京枡国家公定枡に指定した。この結果,両座の独占は廃止され,各地方に製作請負人が定められ,さらに“度量衡検査規則”によって検査法を定め,大蔵省の管轄としたが,1881年(明治14)からは農商務省に移管された。こうして,新京枡は政府の検定権掌握のもとに,着々と国家公定枡の地位を固めたのである。そして1959年(昭和34)1月1日からメートル法の実施に伴い,従来の斗升合の単位は廃止され,リットル表示となり容量・形状・材料にも種々のものが現れた。