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●魔女 まじょ

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 西洋では俗に呪術を使う魔女が人間の体を害し,出産を困難にし,病気をおこさせ,死にいたらせ,農作物を枯死させ,家畜を滅ぼし,牛乳を腐らせ,暴風雨・荒天・ひょうなどを激化させると信じられた。魔女は,ヴィルプルギスの夜(5月1日の前夜)その他時節の区切りの日に,ドイツのブロッケン山などに,ほうきの柄・つえ・くまで・雄やぎ・ブタなどにまたがって飛んできて悪魔と無礼構の宴会を開くと考えられた。中世には教会は激しく魔女を迫害し,悪魔との契約・悪魔の情婦・夢魔といった観念がつけ加えられた。13世紀以後,異端裁判が行われるようになってから,数多くの女性が魔女の名のもとに拷問を受け,火あぶりの刑を受けた。

【魔女裁判】異教時代のゲルマン系の人々は,他の原始諸民族がそうであったように,善悪に関する種々のデーモンの存在を信じ,キリスト教に帰依してからもこれらデーモンの存在を根強く信じていた。教会は,最初はこれらデーモンの存在を否定していたが,13世紀以来悪霊の存在を神の対立物として認定した(聖トマス)。1231年,教皇グレゴリウス9世治下に宗教裁判が制度化され,異端取締りが本格化する。1848年,教皇インノケンティウス8世が魔術禁圧の勅書『限りなき憂慮をもって望む』を発し,1487年『魔女への鉄槌』(ドミニコ会士インスティトリス・シュプレンガー著)が公刊されてから魔女裁判の狂信的風潮が一般化した。後者は,魔女概念に関するスコラ学者の理論を集成し,魔女の放縦で奔放な生活態度を克明に記し,裁判所はあらゆる拷問を用いても魔女を摘発し,その標識を指示すべきであると説いた,魔女狩りについてのおそるべきハンドブックであった。魔女裁判は一度告発されれば,奇跡でもおこらない限り,生きて法廷から帰れない不条理なものである。有罪を立証する唯一の方法は自白である。自白を導くために「吊り責め」や「吊り落とし」のほかありとあらゆるすさまじい拷問が用いられた。魔女裁判も後期になると「自白供述書」なるものが前もって法廷側でつくられており,被告はその書類を肯定するためにさまざまな拷問を受けねばならなかった。魔女の疑いをかけられた被告は証人への反対迅問も禁止され,被告に有利な物的証拠は提出できず,法廷側は被告に対しとるにたりぬ中傷でも採用し,無実を弁明しようとしても審理のほとんどが非公開であり,きいてくれる聴衆を全く期待できないという恐るべき暗黒裁判にかけられねばならなかった。有罪と決まれば待ちうけているのは死刑(火刑)である。このような魔女裁判は5世紀間にわたってヨーロッパを支配し,実に約10万人の人を火刑に追いこんだ(そのうち10%が男)。この狂信的な魔女狩りの盛んだった時代は第1期1590〜1610年,第2期1625〜35年,第3期1660〜80年と3期に分けて考えることができる。

【経済政策】魔女狩りの対象となったのは虐げられた貧乏人ばかりではなく,最も富めるものから告発されていることに注意されねばならない。被告は異端審問法廷の費用一切を支払ったうえ,残された財産のすべてを自治郡に属する地方貴族や司教・異端裁判所の手で没収されねばならなかった。ところによっては教会や世俗一般の裁判所に代行されたところもある。こういったところから財産没収がこの裁判の推進者に財をもたらしたため,これが長期にわたる迫害の根本原因となったと考えることができる。財産家を処刑の対象とすることによって,その莫大な資産を教会を経由して吸い上げるという権力者の側の狡猾な経済政策の一面があったことは見逃せない重要な事実である。

【終結】宗教改革の声が高まるにつれ,さすがの魔女裁判も力を弱め,18世紀後半になると下火になり1781年に最後の審問処刑が行われた。19世紀前半の啓蒙時代のあけぼのの時代,1834年になって初めて完全な消滅をみることとなった。

〔参考文献〕吉田八岑『西洋暗黒史外伝』