●マジャパヒト
アジア インドネシア共和国 AD
13〜15世紀にジャワ中部および東部を中心に栄えた王朝。シンガサリ王朝の最後の王であるクルタナガラがクディリの代官ジャヤカトンによって1292年に暗殺された後,その女婿であるヴィジャヤはいったん降服したが,翌1293年初のモンゴル軍のジャワ侵入を利用してジャヤカトンを捕え,さらにモンゴル軍をも撤退させ,東ジャワのブランタス河流域のマジャパヒトの地に新王朝を開き,クルタラージャサ=ジャヤヴァルダナ王として即位した。彼はクルタナガラ王の4人の王女を妻にすることによって(ただし,4人は実在の人物ではなく,シンガサリの四つの領土の象徴であるという説もある),シンガサリ王朝の正当な後継者であることを示したが,その治世は必ずしも平穏ではなく何度かの反乱がおこっている。1309年に同王が没すると,その子が王位を継承し,ジャヤナガラを名乗った。この治世にも政情は依然として不安定であり,1319年には首都が反乱軍によって占領され,親衛隊長ガジャ=マダの活躍でようやく危機を脱することができたなどの事態も生じたが,一方では1321年にこの地を訪れたイタリア人宣教師オドリコはこの国の富強ぶりを伝えている。この王は1328年に暗殺され,王位は異母妹トリブヴァーナの手に移ったが,このときに宰相に任命され国政の実権を握ったガジャ=マダの手によって領土拡大政策が積極的に進められた。1350年,女王の子ハヤム=ウルク(若いおんどりの意)が王位を継ぎ,ラージャサナガラを名乗った。一般にはハヤム=ウルク王として知られるこの王の治世が,マジャパヒトの最盛期であった。王はガジャ=マダの輔佐により内政を整え,またスラヴェシ島北部を除く現在のインドネシア共和国のほぼすべてに相当する地域と,マレー半島の一部を支配下に収めた(ただし,実際の支配地は東ジャワ・マドゥラ・バリだけだったとする説もある)。このように支配が拡大した結果,マジャパヒト王朝はヒンドゥー=ジャワ文明の頂点に立つ伝統的王朝として,農業上の富の支配に基礎を置く内陸農業国家としての性格に加えて,ジャワ北岸諸港の中継貿易を支配し,商業的権力としての性格をも併せ持った一大帝国を築き上げたのである。しかし,この王国はハヤム=ウルクの死(1389)後,しだいに衰退に向う。15世紀初頭に台頭したマラッカがモルッカ諸島からインドに及ぶ香料の貿易ルートを支配したことにより,その中継地の役割を果たしていたジャワ北岸諸港がマラッカとの結びつきを強め,しだいにマジャパヒトからの独立化傾向を強めていったこと,イスラームの浸透がこうした過程をいっそう促進したこと,これに加えて国内的には王位継承をめぐる紛争が生じたことなどが,その要因としてあげられる。15世紀後半になると,1478年のデマッによる攻撃など,この国はイスラーム化した沿岸諸港国から攻撃を被るようになり,16世紀初めには滅亡する。
この王朝は最後のヒンドゥー王朝として多くの文化的遺産を残した。寺院建築では,東部ジャワのブリタール近郊にあるチャンディ=パナタランなどが代表的なものである。またマジャパヒトの王都の置かれた現在のトロウランの近郊からは,いくつかの遺構群が発見されている。文学作品では,ハヤム=ウルク王時代に宮廷詩人プラパンチャが著した王の頌徳詩である『ナーガラクルターガマ』がとくに有名である。以上のようなマジャパヒトの繁栄は現在にいたるまでインドネシア人のシンボルとなっており,ガジャ=マダやハヤム=ウルクの名は今も地名や大学名などに用いられる。
〔参考文献〕ジョン=D=レッグ,中村光男訳『インドネシア』1984,サイマル出版