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●マザラン

ヨーロッパ フランス共和国 AD1602 フランス王国

 1602〜61 フランスの政治家・枢機卿。父はスペイン領シチリアの行政官でマザリノといった。スペインのコロンナ家につかえ,アルカラ大学で教会法を学んだが,冒険心が強すぎるとして主家からローマ蟄居を命ぜられる。一時,教皇軍の中隊長をつとめたが外交の才があり,スペイン語に堪能で,諸君主から嘱望された。1630年,リシュリューとルイ13世にみこまれ,翌年フランスとローマ教皇の調停にあたる。1634年,教皇使節としてパリに赴任。1639年,リシュリューからフランス帰化を認められ,1641年には枢機卿に任命された。リシュリューの死後,国務大臣格で国務会議をとりしきり,摂政アンヌ=ドートリシュと結んでルイ13世の遺言をつらぬき地位を保全。摂政とは秘密結婚までの深い関係にあったといわれる。少年王ルイ14世政治教育に力を注ぐ一方,リシュリューに退けられた大貴族の反抗を抑え,神聖ローマ帝国・スペインとの戦争(三十年戦争)もロクロワの戦勝のように優位にたったが,戦争継続のため増税が必要となり,フロンドの反乱(1648〜53)をまねいた。そのうちのパリ高等法院の反乱には妥協の姿勢を示しながら,摂政と国王をパリから避難させ,コンデ公の軍隊で包囲させた。次に貴族の反乱がおきると,高等法院と通じ,コンデ・コンティ・ロングヴィル公などを逮補させた。反マザランの勢力がなお根強いのを知るとケルン付近に逃れ,協力者のルテリエなどを通して統治し,最終的に1653年,ルーブル宮に帰還した。反乱終息後,絵画・彫刻アカデミーを建設,図書館を再建。ユグノーには寛容策でのそむ一方,ジャンセニストを抑圧した。外交でも再び積極策をとり1657年,ルイ14世を神聖ローマ皇帝に推挙したり,1659年にはクロムウェルと結び,デューンの戦いでスペインを破ってアルトワとルーションをフランス領に加えた。この戦果の上にルイ14世とスペイン王の娘マリー=テレーズの結婚を準備。国王に親政をすすめて死んだ。リシュリューが始めた積極的な国策をうけつぎ,ルイ14世の絶対王政への地ならしをした。

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