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●マケドニア朝 マケドニアちょう

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 ビザンツ帝国中期の王朝(867〜1056)。

【イスラームとの戦い】創始者バシリオス1世とレオン6世両帝の時代には,法律が編纂・整備され(『バシリカ法典』の成立),官僚機構が完成し全盛期を迎える。しかし,アグラブ朝イスラームの征服によりシチリアを完全に奪われ(902),帝国第2の都市テッサロニケも失う(904)。レオン帝の弟アレクサンドロス3世(在位912〜913)の治世ののち,帝位はレオンの息子で幼少のコンスタンティノス7世(在位913〜959)に移ったが,実権は海軍司令官ロマノス1世(在位920〜944)が握り,彼は,ビザンツ征服を企てるブルガリア国王シメオンの攻撃を退け,アッバス朝の衰退に乗じてアルメニアを攻め,その首都テオドシオポリスを占領(928)。ロマノス1世に政権を奪われたコンスタンティヌスは文筆活動に専念,『バシリオス1世伝』『宮廷の儀式について』などビザンティン史の貴重な史料を遺す。ビザンティン帝国の大発展の時代は,コンスタンティヌスの子ロマノス2世(在位959〜963)の時代から始まる。ロマノス2世の急死後,その妃テオファノの2度目の夫で軍人ニケフォロス2世フォカス(963〜969)は,軍人としてクレタ島をイスラームから奪回(961),帝位についたのちにはキプロス島からイスラームを駆逐(965),キリキアを奪還し,東地中海の制海権を回復。ニケフォロスを暗殺して帝位にのぼったテオファノの愛人ヨハンネス1世ツィミスケス(在位969〜972)は,キエフ公国のスヤトスラフ王をドナウ沿岸で破り,ルース族(ロシア人)をバルカンから退け,東ブルガリアを服属させ,ファーティマ朝のシリア・パレスチナを征服。

【全盛期】ロマノス2世の息子バシレイオス2世(在位976〜1025)の即位で帝位は正統に復帰,彼はシリアの征服地をイスラムの攻撃から守り,西ブルガリアを征服,ブルガリアを完全に制圧,「ブルガリア人殺し」の異名をとる。この結果,ビザンティン帝国は,ユスティニアヌス帝以来の全盛を現出した。コンスタンティヌス8世の死によってマケドニア朝の男系が絶え,そのあと同帝の娘ゾエの夫ロマノス3世(在位1028〜34)・ミカエル4世(在位1034〜41),彼女の養子ミカエル5世(在位1041〜42)が帝位についたが,ゾエの地位回復を要求する市民が蜂起,ミカエル5世は退位。ゾエの3度目の夫コンスタンティヌス9世(在位1042〜54)の時代には,ビザンティン文化の最盛期を迎えた。当時最もめざましい活躍をしたのが,政治家・哲学者のミカエル=プセロス(1018〜78?)で,プラトン哲学のほか古典古代の歴史・修辞学などを研究,百科全書的知識を蓄積,同時代の最も詳しい歴史『クロノグラフィア』を著す。マケドニア朝を通して,私的大土地所有が発展したため,自由農民や軍事保有地保有兵士を擁護する一連の社会立法(「マケドニア新法」)が公布されたが,自由農民の分解と没落・封建的な貴族(領主)層の台頭が進展し,マケドニア専制国家体制を崩壊へ導いた。

【文化】古今の図書の抜粋・解題である『ビブリオテケ』の著者フォティオス(820ごろ〜891)に始まり,コンスタンティヌス7世をへてプセロスにいたる古典復興の活動は,百科全書的色彩を帯びながら法学・神学・芸術などの領域にわたる古典古代の回復を呼びおこした(マケドニア=ルネサンス)。宗教においては,東・南スラヴ族への領土的発展に伴い,これら民族のあいだにギリシア正教圏を拡大,またバシレイオス2世の妹のキエフ国王ウラディミルとの結婚によって,ロシア教会はコンスタンティノープル総主教の管轄下に置かれたが,一方,1054年ギリシア正教とローマ教会とは教会政治・典礼問題をめぐって最終的に分裂した大シスマがある。

〔参考文献〕渡辺金一『中世ローマ帝国』1980,岩波新書

和田廣『ビザンツ帝国』1981,教育社

井上浩一『ビザンツ帝国』1982,岩波書店