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●マケドニア戦争 マケドニアせんそう

ヨーロッパ マケドニア・旧ユーゴスラビア共和国 AD 

 マケドニア王国とローマの4次にわたる戦争。そのいずれもがローマのギリシア世界征服の重要な段階であり,ローマの地中海制覇の過程が如実に反映されている。第1次マケドニア戦争(前214〜前205)――マケドニア王国のフィリッポス5世ハンニバルと同盟を結んで,ローマの東方進出を牽制した。ローマはマケドニアと直接軍事衝突することを極力避け,反マケドニア勢力の結集をはかってアイトリア・ペルガモン(アッタロス1世),ペロポンネソス諸都市と友好関係を結ぼうとした。戦争はギリシアの主導権争いに終始し,前205年フォエニケの条約で終結した。フィリッポス5世はギリシアにおける勢力を維持した。第2次マケドニア戦争(前200〜前196)――前202年のザマの決戦で,ハンニバルを破って第2次ポエニ戦争を終結させたローマは,先年のフィリッポス5世の所業に対する恨みを晴らす好機を得て宣戦布告した。フィリッポスがその後自由にエーゲ海地域に勢力を伸張したので,脅威を感じたアイトリア・ペルガモン,そしてロードスがローマに訴えたことも,ローマの開戦の口実となった。ローマの将軍フラミニヌスは,これら反マケドニア勢力の協力を得なければ,ローマの覇権は実現しえないということとを十分に認識した優れた政治家であった。彼は“ギリシア諸国の自治独立”をスローガンにして,ギリシア人の支援を勝ち取った。前197年に,フラミニヌステッサリアキュノスケファライで勝利を収め,戦争を終結させた。彼は現実政治家であり,和約によってフィリッポスの支配圏を王国内に限定したが,王国を潰す気はなかった。マケドニア王国の維持がギリシアにおける勢力均衡のために必要だと判断したからである。こののちローマとマケドニア王国の平和の時代がしばらくつづいた。しかし前179年のフィリッポスの死後,彼の息子ペルセウスが後継者となると,東方に再び戦雲がただよってきた。すなわち,彼は一方ではローマと同盟を結びながら,他方,アジアやギリシアにおける王国の勢力拡大に努力した。彼の進出に懸念を抱いたペルガモンのエウメネスは,ローマに赴いて実情を訴えた。かくして第3次マケドニア戦争(前171〜前168)がおこった。戦争の初期はペルセウスが優勢であった。ロードス・ペルガモン,そしてギリシア諸都市(アカイア同盟)などのローマの同盟国は戦争の推移に懸念を抱き,戦線離脱を考えはじめた。事態をローマに有利に転換させたのはアエミリウス=パウロスであった。彼の指揮下でローマ軍はピュドナに勝利し,ペルセウスは捕われてローマに護送され,マケドニアは四つの共和国に分割されることになった。第4次マケドニア戦争(前149〜前148)――共和国時代は長くはつづかなかった。ペルセウスの息子を僣称するアンドリクス Andricus によって反乱がおこされ,それを鎮圧したローマはマケドニアを併合して,ローマの一属州とした(前147)。これによって,約400年に及ぶマケドニア王国は名実ともに滅亡し,ローマのギリシア征服はきわめて容易になったのである。