●マケドニア
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バルカン半島中央部の地方。東にトラキア,西にイリュリス,南にテッサリアをへてギリシアにつづく。マケドニアの歴史は太古の時代・マケドニア王国時代・ローマ属州時代(ビザンティン帝国を含む)・オスマン=トルコ時代・バルカン戦争以降の五つの時代に大別される。すでに紀元前2000年ごろ,東方からギリシア系民族が移動してきた。古典期のマケドニア人の中核は,多分前1100年ごろ侵入してきたドリス人であろう。その後多くの民族の到来がみられる。そのなかには,イリュリス人も含まれていた。ギリシア系マケドニア人は,アイガイを根拠地として付近の平野部に進出し,先住民を駆逐して定住し,農耕を営んだ。前7世紀ごろのことである。マケドニア王家,すなわちテメノス家の伝承は,多分前5世紀初頭に成立し,ヘロドトス(第8巻137章以下)に記されているが,最初の王ペルディッカスとアルゴスとの結びつきを強調することによって,少なくともマケドニアの支配的部族が,ドリス人の一派であることを暗示している。王の名によってもこれは確証される。ペルディッカスの5代後にアミュンタス1世が即位した。彼は前513年ペルシアに服属し,前510年にはアテナイを追放されたヒッピアスに居所を提供した。次のアレクサンドロス1世はギリシアに友誼を示したが,ペルシアの進出に際しては自国の利害を守ることに腐心した。農民を歩兵(ペゼタイロイ)として組織したのは彼である。彼はまた王国内の諸部族を糾合し,諸君主を自分の家臣とした。彼のもとで,マケドニアは初めて貨幣を鋳造した。彼はオリンピア競技に参加を許され,マケドニアのギリシア化に努力したのである。ペロポンネソス戦争の時期にマケドニアを指導したのは,アレクサンドロスの息子ペルディッカス2世(在位前454〜前413/414)であった。彼は,マケドニアの国益を守るためにアテナイに協力したり,スパルタのブラシダスを支援したり,見事な変わり身の早さでペロポンネソス戦争史の名脇役を演じたのである。彼の死後,アルケラオス(在位前413〜前399)がマケドニアをギリシアの一等国に高めた。ペラに首都を移し,エウリピデスを招聘するなど,ギリシア文化の保護につとめた。前4世紀前半は,王位継承争いがつづいてマケドニアを存亡の瀬戸際に立たせた。前359年,イリュリス人との戦闘で多数のマケドニア兵とペルディッカス3世が戦死したとき危機は頂点にあった。事態を収拾したのはフィリッポス2世で,彼は甥のアミュンタス4世を後見し,前355年王を称した。征服の第1段階で,彼は海岸地域を手中に納め,マケドニアを海洋国家に転身させた(前354)。征服の第2段階で東はトラキア,南はテッサリアを征服し,前338年のカイロネイアの戦いに勝利を得てギリシアにコリントス同盟を結成させ,自ら盟主としてエーゲ海を含む全ギリシアに覇を唱えるにいたった。マケドニアをギリシアの覇者としたのは,アレクサンドロス1世以後整備されてきた国民軍であったと考えられる。フィリッポス時代にそれは完成された。彼の死後,アレクサンドロス3世(大王)を王位につけたのも彼らであり,ペルシア帝国の占領をもたらしたのも彼らの功績であったといえる。大王の死後,ディアドコイ戦争の混乱のなかで,マケドニアは再び独立の道を歩み始めた。一時,帝国摂政カッサンドロスが王を称したが長くはつづかず,息子たちの王位継承の争いの最中,軍隊はデメトリオスを王に選び,アンティゴノス朝が始まった。前287年のデメトリオス追放後,エビロスのピュロスとトラキアのリュシマコスが王国を分割した。このころ,マケドニアはケルト人の侵入によって荒廃したが,アンティゴノス=ゴナタスがよくそれを撃退し,マケドニアを再興した(前276)。しかし彼の立場は,アイトリア=アカイア同盟の反マケドニア統一戦線によって著しく困難になった(前252以降)。デメトリオス2世(在位前239〜前229)のもとで,マケドニアは時機を待って静観した。アンティゴノス=ドソンは諸都市の対立抗争を利用して,前224年マケドニアの指導のもとにヘラス同盟を結成した。彼の息子フィリッポス5世(在位前221〜前179)は,「第1次マケドニア戦争」でローマと初めて対決したが,ハンニバルとの同盟に守られてイリュリアの諸都市を占領し,またアンティオコス3世と秘密協定を結んでサモスとカリアを占領した。前197年には,しかし,「第2次マケドニア戦争」でキュノスケファライに敗北し,ギリシアと小アジアの全領土を失った。彼はローマに服従しながら国力の回復につとめた。しかし,彼の蓄えた十分な軍資金を彼の息子ペルセウスは,有効に利用することに失敗して王国の滅亡を早めた。ペルセウスはシリアやビテュニアと結びローマに対抗したが,「第3次マケドニア戦争」は前168年ピュドナの戦いで終わり,マケドニア最後の王がローマの捕虜となった。マケドニアは解放されて4自治国に分割された。金・銀の採掘や船舶建造用木材の伐採が禁止された。完全な自由を求めて,人々はペルセウスの息子を自称するアンドリスコスの反乱を支持したが,「第4次マケドニア戦争」はローマによるマケドニア併合の口実を与えただけであった。前148年マケドニアはローマの属州となった。ローマ支配下で,マケドニアは東方への通路を提供した。主要道路に沿って新しくギリシア=ローマ的都市がおこり,キリスト教布教に大きな役割を果たした。聖パウロの足跡がそれを実証してくれる。西ローマ滅亡後も,マケドニアは東ローマ(ビザンティン)帝国の支配下にとどまったが,ゴート族・フン族・アヴァール人・ブルガール人などの侵入を体験した。5世紀から7世紀にかけて北方からスラヴ人の侵入が相次いだ。彼らは先住民を駆逐し,あるいは吸収してマケドニアの大半をスラヴ化した。東西交渉が再開されると,マケドニアは交通の要衝として歴史上重要な役割を果たすことになった。オスマン=トルコは,コンスタンティノープル攻略の基地としてマケドニアを選んだ。1389年ムラート1世は,セルビアを破ってマケドニアを支配した。それによって多数のイスラーム教徒がマケドニアに定住した。彼らは支配階級を形成し,大多数のキリスト教徒と宗教的に対立した。1492年にはスペインから追放されたユダヤ人がトルコ政府の難民受け入れでマケドニアに移住した。このような民族的・宗教的・言語的相違は,イスラーム人の政治支配やユダヤ人の経済支配と相俟って,マケドニアに解決困難な対立をもたらすことになった。19世紀に“東方問題”とともに表面化した,いわゆる“マケドニア問題”がそれである。西欧からの民族主義の観念の流入が事態を紛糾させた。マケドニアの戦略的重要性がブルガリア人・ギリシア人・セルビア人を対トルコ戦争に駆り立てた(バルカン戦争1912)。戦利品の分配をめぐって3国は再び争い,セルビア人とギリシア人が勝って,ブルガリア人をマケドニアの大部分から追い出した(第2次バルカン戦争1913)。第一次世界大戦と第二次世界大戦に,ブルガリアはマケドニア回復のためにドイツ側に立って奮闘したが,いずれの場合も戦後の平和条約によって占領地の放棄を余儀なくされたのである。第二次世界大戦後,マケドニアの共産化をめざすゲリラ戦がおこったが,1954年ユーゴスラヴィア・ギリシア・トルコはバルカン軍事同盟に調印し,1913年のマケドニア分割が再確認されて今日にいたっている。