50音順    検 索

●本百姓 ほんびゃくしょう

アジア 日本 AD 

 日本の近世農村で田畑・屋敷をもち,独立した農業経営を行い,領主に対して年貢・夫役を負担する農民のこと。高持百姓一軒前小前(こまえ)・平百姓ともいう。近世村落の基本的構成員であり,「公儀の百姓」ともいわれ,用水・入会などの共同利用の権利をもち,村政に参加する資格があった。これに対して無高の農民を水呑といい,また特定の本百姓になんらかの隷属性をもつ農民は,地方により名子・被官・譜代(ふだい)・門(かど)の者・家抱(けほう)・間人などと呼んで区別した。本百姓の成立過程をみてみると,太閤検地では,荘園制以来の重層的な土地所有関係を解消するために「一地一作人」の原則が打ち出され,多数の小農民が名請人として登録された。この名請人のなかには,屋敷地と一定の耕地をもち,独立した農業経営を行う農民と,有力農民への隷属性を断ち切っていない零細な農民が含まれていた。前者がいわゆる初期本百姓で,領主より夫役負担の対象として把握され,役屋(やくや)と呼ばれていた。後者には有力農民の兄弟,次・三男や隷属農民の名子・被官などが含まれていて,彼らは独立した農業経営を行えるほど成長していなかった。そののち,初期本百姓より次・三男や隷属農民が分離・独立するとともに,零細な名請人のなかより自立性を強める者と淘汰される者へと分解が進み,17世紀後半の検地では,1町歩(1ヘクタール)前後の耕地をもつ農民が多数を占めるようになる。こうして小農民の自立が進行し,彼らが本百姓として村落の多数を占めるようになると,本百姓株として固定化してくる。領主側の農村政策としては,小農民自立政策から小農民維持政策への転換とみることができる。この時期以後の本百姓の存在形態は,夫婦を中心とした血縁直系家族で,屋敷地と1町歩前後の田畑を所持し,農具やときには牛馬をもち,家族労働による自給的農業経営を営むものである。彼らが負担する年貢・諸役は,幕藩領主権力の基本的な財政源となっていたので,領主側も本百姓に転職・転住の禁止,土地売買の禁止,田畑勝手作の禁止などの規制を加えて,本百姓の維持と年貢の確保をはかった。しかし,近世中期以降,農業生産力の向上や商品経済の発展の影響により,本百姓の階層分解が進行し,一方に少数の富農・地主が出現し,他方に多数の零細な自小作層が増加し,さらに田畑を喪失して無高の小作人に没落する者も出てきて,本百姓を基本的構成員とする村落の体制が大きく変化するようになった。しかし,本百姓は所持地がいくら増減しても,無高にならない限り本百姓の資格と義務があり,ここに地主・上層農民と没落に直面した中・下層農民とのあいだに,村役人の選出や諸課役の負担方法をめぐる対立が激化し,村方騒動の要因となってくる。村方騒動の解決方法として,従来の名主・組頭などの村役人のほかに,本百姓を代表して年貢や村入用の割付に立ち会う百姓代を設けたり,名主を入札(いれふだ)という投票で選出したりすることが行われた。明治初年に廃藩置県と前後して,農民の転職・転住,土地売買・田畑勝手作などの禁止が解除され,また年貢の金納化・諸役の廃止,さらに地租改正による農民の土地所有権の法認が実現するに及んで,本百姓の体制は消滅する。

〔参考文献〕宮川満『大閤検地論』1・2,1957,59,御茶の水書房

安良城盛昭『幕藩体制社会の成立と構造』1959,御茶の水書房

内藤二郎『本百姓体制の研究』1968,御茶の水書房