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●本草学(日本) ほんぞうがく

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 近代以前における広義の薬物学。本草とは薬のもとになる草を意味する。漢方医学の基礎となる動植物に関する学問をさす。古代中国では『漢書』に本草の語がみえ,古くから研究が行われ,日本にも奈良時代以前7世紀医業の知識として伝来し,令制には新修本草を典薬寮で用いたことが,『続日本紀』にみえ,深根輔仁の『本草和名』のような日本人の手になる本草学がつくられた。令制には薬園師・薬園生の職が見え,梁の陶弘景の『神農本草経集註』などいち早く日本に舶載され782年(延暦6)以降しだいに独自の発展の機をつかんだが,中世には,あまり本草学は発展していない。それが再び本格的な展開をみるのは近世になってからで,明より李時珍本草綱目』を林羅山が移入し,訓点を施し,抄して『多識編』をつくったこと,それが本草学が薬物・薬学研究とともに名物学・物産学などとして発展し,以後独自の薬物・物産学の基礎研究が盛行している。名物学では貝原益軒の書いた『大和本草』は1,362種のものを紹介し,出版している。また稲生若水の『庶物類纂』は3,590種,小野蘭山の『本草綱目啓蒙』1,882種の本草をのせ,とくに啓蒙は異名・形状・産業を詳述している。これによって物産学研究は産業開発への関心を高めた。折から米づかいの経済より,金づかいの経済へとかわる気運も手伝って,本草学は発展する。とくに『本朝食鑑』はその基礎文献であり,宮崎安貞の『農業全書』のごとき農書の発展も,本草学を発展させる大きな力となっている。薬物学から本草学への道を辿ったものに吉益東洞の『薬徴』などが書かれ,物産学や名物学へつながるものとしては,前述『大和本草』より小野蘭山の『本草綱目啓蒙』から,平賀源内の『物類品隲』などが書かれ,西洋本草学が蘭学とともに輸入され,やがて本草学より博物学(生物学)が独立し,中国における本草学とは発展の道を異する道を確立している。江戸時代における本草学は京都を中心に展開し,文化の東漸によって江戸時代中期になって江戸の在住学者に本草学者が増大する。そして職業的本草家も生まれ,本草家・医者・儒医として幕府や諸藩とかかわりをもつものと民間で医や儒をかねているもの,さらに薬屋や園芸業を営むものとがいる。アマチュアの本草家には島津重豪や前田利保のごとく,自ら研究を行うものも少なくなかった。そして江戸時代後期には田村藍水や平賀源内たちがこころみた物産会とか薬品会が標本展示会やその他に赭鞭会・嘗百花のごとき小グループが存在して,本草学そのものの近代化をおしすすめている。

【本草学と産業開発平賀源内は田村藍水と結んで薬品会・物産会の回をかさね,源内の物産会の解説日持『物類品隲』6巻は産業開発に役に立った。彼は和漢洋にまたがる「博物誌」の集大成を志している。その周辺にいた杉田玄白・中川淳庵桂川甫周は近代科学における博物学としての洋学を摂取し,大槻玄沢によって組織的に発展する。シーボルトの弟子伊藤圭介は,ツンベルクの『日本植物誌』によって,『泰西本草名疏』(1829)2巻を刊行し,西欧の植物分類学を紹介している。その伊藤が弟子となった宇田川榕庵は,『植物啓原』3巻・附図1巻をかいて西洋植物学を体系的に導入している。また物産会は,東都薬品会・物産大会・浪華物産会の名で田村藍水が行って以来,各地で実施に移されている。

【本草学と生薬学】本草とは薬と本となる草の意であった。中国では広く動植物・鉱物から得た昔の医薬品を本草と呼んでいる。このごろは生薬(しょうやく)と呼び,明治になってからの化学薬品と区別するため生薬学と改称している。1880年(明治13)大井玄洞の『生薬学』の中でファルマ・コグノシアを生薬学と訳述したといっている。世界で最古の本草書は『神農本草経』である。日本では1854年(安政元)にこれを復原している。漢方薬学の聖典のごとくいわれている。しかし全体的にいって,近代医学の発展によって,本草学はしだいに色うすくなった。

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