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●本地垂迹説 ほんじすいじゃくせつ

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 絶対的理想的釈迦を本地とし,これが化身して現実的歴史的な形で現れたものを垂迹の釈迦とするという,法華経寿量品の仏身説をわが国で神仏関係に転用し,仏は人間を救い利益(りやく)せんがため,仮に神の姿に変じて現れたものとし仏を本地,神を垂迹とする説である。

【奈良朝の萌芽時代】聖武天皇は大仏造立を発願し,その成就を祈って742年(天平14)11月伊勢国へ行幸の節,橘諸兄を伊勢神宮に参向せしめられた。その結果,天照大神は日輪であり,大日如来にほかならず,本地は廬舎那仏(大仏)であるから,仏法に帰依したいとの夢告を天皇が受けられたと『大神宮祢宜延平日記』に記されているのは本地垂迹説の萌芽を示す最初の史料である。一方749年(天平勝宝1)には,北九州宇佐八幡宮の神が大仏造立援助の託宣を出し上京され,手向山八幡宮として東大寺の鎮守となった。孝謙上皇は765年(天平神護1)11月重祚して称徳天皇となられたときに発せられた詔の中で仏典に仏法を守護する神々が説かれている旨を述べられているが,これは梵天・帝釈・金剛力士・四天王・十羅刹女・十二神将・十六善神・三十番神など,元来仏法で守護するとされる天部・明王・鬼神をさし日本の神祇でない。しかしこの護法善神思想が鎮守の形でわが神仏関係に適用され,本地垂迹説の一つの素地となる。またこれより少し前,717〜723年(養老年中)若狭比古神社の神主和朝臣赤麻呂が神の煩悩の身を脱して仏法に帰依したい旨の託宣を受け,神のため神宮寺をたて,同様の事情で763年(天平宝字7)僧満願が伊勢国桑名郡多度神社で託宣を被り,神宮寺を建て,769〜780年(宝亀年中)僧恵勝が近江国陀我社で神に乞われて読経した話など,民間でも神仏接近の傾向がすすんでいることを『続日本紀』『日本霊異記』などが伝えており,これらは神が仏よりはるかに劣った煩悩の衆生であるとする神祇実類観に立つ思想を示している。

【菩薩号の神祇と御霊神の登場】こうした民間の神祇蔑視的解釈は,宇佐八幡神のめざましい仏教化や御霊信仰の流行に伴い,急速に変化し,本地垂迹説の形成を誘致した。平安期のはじめ781〜806年(天応・延暦ごろ)八幡社では神の託宣もあって新しく護国霊験威力神通大自在王菩薩の号を奉ったが,大自在王とは法華経に説く観音の一化身であり,神通の文字も同経から着想したと察せられ,神祇をすでに煩悩を離れた偉大な仏尊的存在へ昇化したものとする思想が明らかに認められる。神に菩薩号をつけることは上述多度神にみられ,常陸国でも大洗磯前・酒列(さかつら)磯前の両社が薬師菩薩号を奉られた。薬師は本来如来のはずであるが,仏教のランクづけとしての菩薩というよりも神の菩薩号は祟りの荒魂的性格を脱却した利益の神といった意味をもつものである。一方奈良朝より平安前期にかけ,貴族の政治権力闘争に破れ無実の罪を受けて世を去った怨霊=御霊が疫神=雷神信仰と結びつき,疫病流行をはじめとする各種災害を惹起すると信ぜられ密教僧侶が中心となって祓い,読経・法会や娯楽的要素を交えた御霊会をリードし,その信仰を鼓吹して御霊神をスイレイ※注1※神から利益的仏尊的地位へと押し上げていった。従来あまり親しみのない密教の一護法神である牛頭(ごず)天王が859〜876年(貞観年中)京都八坂に南部僧侶の手でまつられて祇園天神と称し,その疫神的性格は防疫的利益へと転ぜしめられ,平安中期には薬師如来の功徳が説かれて神祇化した牛頭天王の本地のごとく仰がれてきた。しかし真の怨霊で疫神となった最大のものは,菅原道真で,無実の罪が朝野の同情を集めて,ついに947年(天暦1)6月京都北野の地に霊としてまつられ,天満大自在天神と称された。この大自在天神もさきの八幡神と同じく観音の化身としての偉大な神徳をたたえたもので,神社には本地堂として観音がまつられた。いずれにしても仏教接近の代表というべき八幡や祇園・北野など諸社によって神祇の地位は仏尊化しつつ高められ,神仏同体思想に近づく情勢となり,院政期には各神社祭神個別に本地が決められていった。

【修験行者の活動】大和国吉野金峯山は9世紀終わりごろより金剛蔵王(ざおう)菩薩の信仰が山岳修行者のあいだで盛んとなり,本来密教で智徳の守護神とされたものが富貴延命の利益を与える神祇的な存在とされ,中世には釈迦の変身という本地的なものすら考えられてきた。この山には古くから勝手・子守・早馳・金山など地主の山神がまつられていたが,修験者のあいだでこれらの神々は蔵王菩薩の眷属的地位に置かれ,各々多聞・地蔵・文珠・アカ※注2※などの本地仏が設けられた。同じく修験信仰の熊野三山では12世紀に入ると三所・五所王子・四所宮など多数の祭神について本地仏が明らかとなった。すなわち,三所は本宮家津御子が弥陀,新宮早玉明神が薬師,那智結宮が千手観音,五所王子は若宮が十一面観音,禅師宮が地蔵,聖宮が龍樹,兒宮が如意輪観音,子守が正観音,四所宮は一万十万が文珠または普賢,勧請十五所が釈迦,飛行夜叉が不動尊,米持金剛童子が毘沙門天で,ここでは仏尊を神祇化した祭神が一段と多くなり,それらに改めて本地仏がきめられ複雑化した。本地とされる仏尊の種類は以上大まかにいって如来・菩薩と明王・天部の2方向に分かれる。前者は神祇の恩寵を下す機能を表したもので,和魂的な状態をも意味し,薬師と密教的観音が中心である。後者は荒魂的祟りの機能を投影させたもので不動・毘沙門(多聞)が中心である。密教的観音は十一面・千手・如意輪・不空羂索などの観音をさし,これらはとくに古代の山岳修行者が厚く,信仰し,変化自在である観音の一つの化身を神祇と観念することが多かった。中世,争乱が多発し社会不安が高まると,これに代わって不動・毘沙門を本尊とすることが主となり,神祇はその悪魔的威力が頼まれてきたのである。こうして本地仏決定に修験行者の担った役割の大きかったことが想像される。

【仏教神道と反本地垂迹説】鎌倉時代には仏を本地,神を垂迹(即ち仏本神迹)とする神仏同体思想が一般化し,これを仏教の立場から理論づけた神道が発生した。天台宗ではのちに山王一実神道と呼ばれた日吉社の神道理論書『耀天記(ようてんき)』がつくられ,その中で釈迦は迦葉・光浄・月光三菩薩に命じ,中国教化を行うため,それぞれ老子・顔回・孔子に変身させたし,さらに日本へは日吉大宮権現と化身して降臨されたと述べ,真言系では大和国大神(おおみわ)神社でつくられた『三輪大明神縁起』で大神大明神は伊勢皇大神と同体でともに本地大日如来とされ,伊勢外宮の祠官が偽作した『神道五部書』では,神本仏迹(神を本地,仏を垂迹とする)の考えさえ示した。さらに空海に仮託して書かれた『天地麗気記』では神話の天神七代を過去七仏(毘波・尸棄・毘舎・拘留孫・倶那舎・迦葉・釈迦)が転じて天の七星となったもの,地神五代を現在四仏(アカ※注2※・宝生・弥陀・天鼓雷音)と舎那の五仏が化身し垂迹したものと述べている。以上鎌倉時代の仏本神迹に立つ本地垂迹説は,公家の神国思想高揚や衆生はすべて本来仏性を具有するとの平安仏教の本覚門思想の徹底によって,神本仏迹思想(反本地垂迹説)を生み出すようになった。伊勢神道の教義書である上記『神道五部書』にそれが認められるが,室町時代,吉田兼倶が出て唯一宗源神道(吉田神道)を樹立することにより,これを理論的に完成した。兼倶の家は卜部氏で代々学者を出し『日本書紀』の研究を通じて,神道説を発展させてきたので,先祖の遺した業績の上に独自の教義を『唯一神道名法要集』という書にまとめ,その中で推古天皇のとき,聖徳太子が密奏されたものだとして,仏法は万法の花実,儒教は万法の枝葉,神道は万法の根本であるとする“三教枝葉花実説”を展開し,その結果本地垂迹説の発展に終止符が打たれた。

〔参考文献〕西田長男『本地垂迹説の成立とその展開』(『日本神道史研究』第4巻),1978,講談社

村山修一『本地垂迹』1974,吉川弘文館

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