●本願寺 ほんがんじ
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浄土真宗(一向宗)の本山。親鸞上人死後10年に当たる1272年(文永9),娘の覚信尼が親鸞の墓を移して小堂を建て,本像を安置して東山大谷に御影堂をつくったことに始まる。その後御影堂は,世襲の留守職によって守られた。本願寺の寺号は3世覚如の代の1321年(文享1)である。しかし8世蓮如の1465年(寛正5)大谷本願寺山門叡山衆徒により破却されている。蓮如は身をもって脱れ堅田門徒に身を寄せた。蓮如は畿内・北陸に教源の拡大を求め,1478年(天明10)蓮如が畿内の兵乱のため京都山科に本願寺を再興した。その後1532年(天文10)10世蓮如は山科を去って大坂の石山へ移り,織田信長と10年戦っている。1580年(天正8)敗れて焼亡,11世顕如は紀伊鷺森に移り,顕如の二子准如が12世を継いだが秀吉の寺地寄進により堀川七条に堂宇を建てた(西本願寺)。1602年(慶長7)家康は顕如の長男教如は京都烏丸七条に寺地寄進,教如12世を称し,東本願寺を創立して東西本願寺に分裂している。【本願寺教団の発展】本願寺の発展は,第8代法主蓮如の出現であった。蓮如は43歳で8代法主となった。蓮如は仏光寺派・専修寺派・三門徒派と宗教的な闘いをつづけた。本願寺教団の組織は惣村をつないでつくった。彼は村において本願寺の信仰をもたせたいものは坊主と乙名と年寄であった。これを中心として惣村の農民を講組織にくみ入れていった。村々の農民は本願寺派の説教で洗脳,再組織され,心の面では生活の場に生きる勇気を与えられた。彼らは念仏によってこの世の幸福を教団の組織の力で実現していくことを考えた。蓮如は本願寺の門徒の反社会的言動を極力抑えようとつとめた。野党的武士が門徒農民の反抗を利用したが,蓮如はけっして,民衆に政治権力を握らせることで彼らを幸福にすることを目的としているのではなかった。蓮如の狙いは,本願寺教団のなかで念仏の信仰で生きる自信と勇気を取り戻させることであった。したがって蓮如は,宗教の果たすべき役割を無視して政治的暴走する門徒の動きを極力阻止しようとつとめた。また蓮如は,山門とのことを好まず,北陸へ旅立っている。越前国坂井郡細呂宜郷吉崎へ一宇を建てた。ここでも蓮如は平泉寺・豊原寺のごとき山門末寺を刺激することをやめ,旧仏教とも摩擦を避けようとつとめた。それでも多くの寺が真宗寺院へ転宗した。蓮如は村との関係づくりにつとめ,宗教を中心とした人間関係づくりにつとめた。蓮如は富樫氏との対決もつとめて避けた。しかし門徒武士たちは,蓮如を超えて他宗派に対する非難攻撃や年貢未進などを行った。蓮如は,門徒武士たちが自分の了解をえず行動して困った。富樫政親としてもせっかく一円経国化を完成しえても,門徒農民や武士が彼の意思をほとんど聞かず勝手な振まいをつづける以上,なんら実体のないものとなってしまうので,門徒との衝突が避けることができなくなった。その結果ついに門徒武士団は富樫政親を攻め,真宗教団の支配する本願寺王国をつくった。北陸の有力大名朝倉氏は,三郡の地を本願寺に提供した。本願寺はもっぱら蓮如の遺志を踏襲し,こういう大名や在地武士の争いには,一切不介入の方針をとった。門徒には厳しく掟を守ることを命ずる一方,朝倉の野心を見抜いて彼が門徒になることを拒絶している。門徒国人武士団には自己領主化するものが多く,そのため蓮如は吉崎を退去した。彼の優れた組織力で畿内地方に門徒は激増した。財政力は豊かになり,山科本願寺づくりに成功している。ところがその後を受けた法主たちは戦国大名と対決したため,つねに法難にあった。11代顕如なども信長とつねに対決している。しかしその結果,必ずしも勝利を確保することはできなかったことは先述した通りである。その点では,それを避けた蓮如の生き方こそ王法に対する仏法をたてる方向であった。そしてつねに,親鸞の教えを守り影像を大切にした生き方であったといえる。
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