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本 ほん
【鎌倉時代の本】1184年(元暦1)に平家が滅び,1192年(建久3)源頼朝が鎌倉に幕府を開き,1333年(元弘3)執権北条氏が滅びるまでのおよそ150年間を鎌倉時代と呼ぶ。武士が独立して政治を行い,平安の貴族社会から封建時代に転移した時代で,公卿文化を吸収し,宋伝来の禅宗文化を融合させ,動的・写実的な文化を創建した。また武士の好嗜を反映し,平安の才女文学に代わり,軍記物語・随筆・説話文学などが生まれ,仮名書きの和歌・連歌なども盛んに行われ,絵巻草子・縁起類も多く書かれた。この時代は戦記文学が盛んで名作が続出している。代表作は『平家物語』13巻(13世紀前半成立),これについでは『源平盛衰記』48巻(鎌倉中期作)・『吾妻鏡』(鎌倉後期作)などがある。鴨長明の『方丈記』(1212成立)はわが国随筆文学を代表する一書。吉田兼好の『徒然草』2巻は,『枕草子』『方丈記』とともに古典随筆文学の傑作といわれる。このほか,藤原定家ら撰の『新古今和歌集』(鎌倉初期成立)・源実朝の『金槐和歌集』(1212成立)・親鸞上人の『歎異鈔』・僧慈円の『愚管抄』・橘成季の『古今著聞集』・阿仏尼の『十六夜日記』などがあげられる。
【鎌倉時代の開版文化】平安時代の末期,1180年(治承4)の平重衡の兵火により,東大寺・興福寺など七堂伽藍はじめ,経蔵の版本・版木等はことごとく灰燼に帰した。しかし鎌倉幕府の成立とともに,寺社の復興も成り,経典の再刻も企図され,やがて南都開版史上黄金時代を迎えることになる。奈良・天平時代の仏教は輸入されたままのもので,信仰というよりむしろ知識というべきものであった。しかし鎌倉時代には偉大な僧侶が輩出し,新しい仏教を生み出した。この強力な担い手が春日版・西大寺版・高野版・浄土教版・五山版などの寺院版で,それぞれ歴史的かつ文化的な役割を果たすことになる。
【春日版】平安末期から絶大な勢力をもつ藤原氏氏寺,奈良の興福寺で開版したものを,藤原氏の氏神春日大社に奉献したところからその名がある。一般的に美刻で良質の料紙を用い,印刷も良好,装丁は従来の巻子本(巻物)のほか,折本や粘葉装などの新様式を取り入れている。春日版はいつごろから始まったのかはっきりしないが,現存するもののうち,1088年(寛治2)の刊記のある興福寺版『成唯識論』8巻(正倉院蔵)が一番古いので,これをもって春日版の始まりという者もある。鎌倉時代の春日版は割合現存するものが多い。春日版『大般若経』600巻が,1223年(貞応2)から多年を要して完成したが,その版木が興福寺に現存し,重要文化財の指定をうけている。興福寺に対して,東大寺では,もっぱら華厳宗の経典を開版した。このほか奈良では西大寺・法隆寺などでも開版が行われたが,これらを総称して「南都版」と呼ばれた。北方の京都を“北都”と称するものに対するものである。
【浄土教版】鎌倉時代以後,京洛東山の知恩院を中心に,法然坊源空(黒谷上人)の開いた浄土教に関する本が開版された。
【高野版】鎌倉の初期以来南都諸大寺の開版事業は,空海上人(弘法大師)の創建した紀伊の高野山を刺激し,鎌倉中期以後武将たちの大規模な後援によって,同山および門流寺院で,密教および悉曇に関する本の開版をみた。世にこれを「高野版」という。高野版については1260年(文応1)から1323年(元享3)までの4種の開版目録が現存し,書名・開版者名のほか,料紙・装丁の品別・価格・経師の注文規程など,開版事業に関する諸種の記録が記されてあり,中世のわが国開版文化を知る上で貴重な資料になっている。
【泉涌寺版】鎌倉時代の初め碩学シュンジョウ※注2※(1166〜1227)の入宋を初め,わが国諸宗の僧侶が相次で入宋した。当時宋(中国)の開版事業は盛大をきわめ,大蔵経の開版もしばしば行われたが,歴代刊本のうち,宋版本は最も精良であると珍重された。僧シュンジョウ※注2※は宋に滞留すること12年,帰国に際し,内外典2,000余巻を持ち帰り,京都泉涌寺を創建,律宗の復興を計り宋版本複刻の気運をおこした。それらの版本はいずれも「泉涌寺版」として知られている。
【五山版】鎌倉の中期,禅僧弁円円爾(1202〜80)が入宋し,帰国にあたり,仏典はじめ儒書・雑書など2,000巻をもち帰り,宋学の源泉とするとともに,1239年(延応1)臨済宗東福寺を創建,五山版の開版を促した。「五山版」とは,京都の臨済宗の5大寺(南禅寺を5山の上位とし,天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の6寺)を中心に,鎌倉中期から南北朝をへ,室町末期までおよそ二百数十年間に,鎌倉5山も含め,禅宗関係者の手で開版された国書および宋・元刊本の複刻版を総称する。奈良・平安・鎌倉時代を通じ,各寺院で開版されたものは仏書に限られていたが,五山版は仏典以外の文学・儒書・詩文集・医書にまで及んだ。これは一国文化の盛衰に大きな影響を与える開版事業が,中世の厳しい仏教思想の束縛から解放され,近世文化への旅立ちを意味する。また日本の本の形は南北朝(14世紀)から1877年(明治10)ごろまで,およそ600年間和本(袋とじ)の形でほぼ統一されていた。この綴じ方は実用に根ざしたもので,五山版によって確立されたものであり,その意味で五山版は和本の始まりということもできよう。
【南北朝・室町時代の開版】鎌倉幕府が滅び建武の中興(1334)以後,政治の中心が鎌倉から京都に移ると,開版事業も京都の五山を中心に隆昌に赴き,南北朝にいたり,その間数百点の本が印行された。当時中国の名彫工陳孟栄・陳伯寿・愈良甫・陳孟才などが来朝,そのなかには帰化した者もある。およそ60年の南北朝時代をへて,約240年間の室町(足利)時代がつづくが,その間にわが国最初の連歌集,二条良基撰『菟玖波集』20巻(1356成立),南北朝動乱を扱った『増鏡』(1333〜76成立)・『太平記』40巻(1371〜72ごろ作),北畠親房著『神皇正統記』6巻(1339作),『義経記』『曽我物語』などが上梓された。
【古活字版】豊臣秀吉の文禄・慶長両度(1592,97)の朝鮮出兵によってもたらされた,朝鮮の銅活字と活字本はわが国に木活字による活字版の発生を促した。それらについては簡略ながら【印刷】の項で述べている。わが国の開版は奈良時代〜桃山時代(8〜16世紀)まで,すべて整版(木版)で行われたが,活字版が紹介されると,95%までがこの新様式を採用し,古活字版時代を産んだ。その結果,中世の久しい文化的停滞が破られ,思想・学問・芸術・技術が急速に進歩・発達し,日本の文芸復興の原動力となった。古活字版は文禄・慶長から寛永(1592〜1644)にかけ,およそ半世紀にわたり,木活字による印刷本をとくにそう呼んでいるが,多くは営利を目的とせず,権力者や富裕な有識者が財力を投じて刊行し,自家用に供し,先輩・知友に頒ち,神社仏閣に献じた。したがって商品臭がなく,勅版・嵯峨本などに代表される古活字版は用紙・印刷・装丁などに心がくばられ,本としての美しさ,立派さを備え,正保(1644〜48)以後の書肆の手になる,商品臭いものとは比べものにならない優雅を保っていた。嵯峨本のなかで一番早く刊行された『伊勢物語』2冊(1608刊)は,純粋な日本画の挿絵の入った最初の本であり,平仮名を用いた国文学のきわめて初期のものである。従来漢文の本に独占されていた日本の出版界に,近世通俗文学への道を拓いたものとして一新紀元を画するものであり,高く評価されてよい。
【キリシタン版】豊臣秀吉の文禄・慶長の役を契機に,木活字版の本がわが国に紹介されたのとほぼときを同じくして,ヨハン=グーテンベルクの発明した鉛鋳造活字による印刷術がわが国に伝えられた。これらについても簡略ながら【印刷】の項で述べている。すなわちイエズス会の宣教師アレハンドロ=バリニャーニが,日本での伝道に資するため,洋式印刷機・欧文活字・印刷用紙とインキ,それに工人数名を伴い来朝,1591年(天正19)から1611年(慶長16)まで20年間に加津佐・天草・長崎・京都などで,国字およびローマ字を用い,日本語(ローマ字および平仮名まじり)・ラテン語・ポルトガル語で宗教・文学・語学の本を30点ほど刊行した。『どちりな=きりしたん』『ぎあどぺかどる』を初め『平家物語』『伊曽保物語』『落葉集』『太平記抜書』などがある。世に「キリシタン版(切支丹版・吉利支丹版)」という。これらの本は1612年(慶長17)徳川幕府のキリシタン禁制によりすべて没収廃棄され,残存するものはきわめて少なく,書名だけ判明して実物の1片すら現存せぬものもあり,多くても数部も出ず,1部または断簡を残すにすぎないものもある。現存するものは31点73冊を数え,うち天下の孤本は18点に及ぶ。キリシタン本の最も多く所蔵するところは奈良の天理図書館の7部,大英図書館の6部,ボードレー図書館の5部などとなっており,日本にはこのほか東洋文庫・水戸徳川家・上智大学・大浦天主堂などのものを含めて14部,多くは重要文化財に指定されている。
【上方文学】徳川幕府の文教奨励策は国学の復興を促し,文字の普及は通俗文学の流行となり,出版を盛んにした。長きにわたって行われた宗教(寺院)と貴族への本の奉仕は,ようやく庶民の手に解放され,庶民文学である江戸文学が盛んになり,[1]仮名草子,[2]浮世草子,[3]読本・滑稽本・洒落本・人情本,[4]黄表紙・合巻となる。年代的にいうと,[1]は慶長・元和・寛永など古活字版全盛時代から元禄ごろまで,[2]は天和2年から享保ごろまで,[3]は宝暦から文化の初めまで,[4]は文化以降幕末まで,[1]と[2]は上方文学中心,[3]と[4]は江戸文学中心となる。仮名草子は室町時代のお伽草子に新作を加えた仮名本位の通俗書で,訓蒙的で幼稚な滑稽味のあることを特色し,開版のほとんどは京都で行われた。浮世草子(西鶴本)は外形は仮名草子と同じだが,内容はまったく異なり,“浮世”の名のごとく,当時の社会風俗・男女の情の写実に重きを置き,好色物を特色とした。作者の中心人物は井原西鶴(1642〜93)で,1682年(天和2)に『好色一代男』8冊を上梓したが,たちまち一世を風靡した。浮世草子の嚆矢で西鶴本・好色本などとも呼ばれる。西鶴はその後『好色二代男』『好色五人男』5冊・『好色一代女』6冊などを書き,さらに武家物や町人の致富談を中心にした『武道伝来記』『日本永代蔵』『世間胸算用』5冊などを書いた。西鶴の浮世草子の後を追うものに八文字屋本がある。京都の書肆八文字屋自笑(安藤八左衛門)が江島其磧と手を組み,新形式の浮世草子を出版した。浮世絵師西川祐信の挿絵が知られている。以上はいずれも京坂を中心とした上方文学で,江戸文学の前期に属し,のちの江戸草双紙など新文芸の黄金時代を生むことになる。西鶴とほぼときを同じくして,浄瑠璃・歌舞伎狂言作者の近松門左衛門(本名杉森信盛,1653〜1724)が大いに活躍した。彼の特徴は美しい詞章で義理と人情に悩む人間像をあざやかに浮彫りすることにあり,多くの名作を産んだ。作品は全部で150編ぐらいと推定されるが,現存するのは浄瑠璃94編(時代物70編・世話物24編),歌舞伎狂言26編,作品には世話物に『冥途の飛脚』『心中天網島』『心中宵庚申』『女殺油地獄』,時代物に『世継曽我』『出世景清』『平家女護島』『国性爺合戦』『傾城反魂香』,歌舞伎狂言に『傾城壬生大念仏』『傾城仏の原』などがあげられる。
【江戸文学】宝暦(1751〜64)以後文化の東遷に伴い,主要出版地は江戸となり,洒落本・人情本など名実ともに江戸文学の発生をみることになる。洒落本は遊女と遊客の対話を主としたもので,山東京伝・式亭三馬・柳亭種彦・十返舎一九などの作者がいる。洒落本は宝暦・明和・安永・天明(1751〜89)と栄えたが,1790年(寛政2)好色ゆえに発行禁止となった。人情本は洒落本の発禁のための変形で,洒落本の遊里中心から江戸町人の恋愛を扱ったものになった。作者には為永春水・曲山人などがおり,人情本は春水の『春色梅児誉美』12冊・曲山人の『仮名文章娘節用』9冊を読めば,それで十分であるといわれた。滑稽本では十返舎一九の『東海道中膝栗毛』16冊,式亭三馬の『譚話浮世風呂』9冊,三馬・滝亭鯉丈の『浮世床』8冊などがある。読本は絵草紙に対し,文章を主とする本の意で,作者は学者階級が多く,建部綾足の『本朝水滸伝』9冊・上田秋成の『雨月物語』・曲亭馬琴の『南総里見八見伝』106冊などが知られている。
【草双紙】江戸文学の一主潮をなすものに草双紙がある。大衆むきに書かれた絵入りの通俗小説で,表紙の色で赤本・青本・黒本・黄表紙などと呼ばれた。赤本は丹表紙を用いたのでそういわれたが,内容は『桃太郎』『猿蟹大合戦』『鼠の嫁入』など子どもむきの絵本である。黒本は黒表紙を,青本は萌黄表紙を用いたところからそれぞれの名がある。黒本・青本とも内容はほぼ同じようなもので,黒本には『石川五右衛門』(1744刊)・『やすなものがたり』『二代政宗』などあり,青本には『風流鱗魚退治』(1745刊)・『作奴化物退治』『盛景両面鏡』など,敵討(かたきうち)・軍談・妖怪退治などの武勇談が多い。黄表紙はその名のとおり黄色の表紙を用いたもので,赤本・黒本・青本の婦女子の読み物というよりは,みるものであったのに対し,大人を対象としたもので,恋川春町の『金々先生栄華夢』2巻(1755刊)・山東京伝作『作者胎内十月図』3冊・岸田杜芳の『草双紙年代記』・十返舎一九の『的中地本問屋』2冊などがある。合巻本は江戸の末期,黄表紙の長編物を数冊ずつ綴じ合わせたものをいい,柳亭種彦作歌川国貞画『偽紫田舎源氏』38編172冊(1829〜42刊)・柳下種員作『白縫譚』などがある。
【江戸の本屋】文禄・慶長の役による朝鮮活字の到来は古活字版を生み,近世文学発展の主要な動因になったが,京都を中心とする寺院や民間篤志の手で行われた開版の仕事は,やがてこれを業とする者の手に受け継がれた。書肆の発生である。慶長・元和年間(1596〜1624)書肆の数は14を数え,寛永以降(1624〜)出版業は企業として確立し,書肆の数も増し,出版の量もふえ,漸次活字版の印行は影をひそめ,木版本(整版本)に還元していった。江戸時代,書肆(本屋)が本を出版しようとする場合,まず本屋仲間(本屋の組合)の行司(行事とも書く,組合の役員)に草稿を添えて開版願を出す。行司は願書に奥印証明をし,町奉行所に出版許可を申請する。奉行所では十分検討した上で許可を与える。許可を受けた書肆は草稿によって挿絵も含めて版下を書き,版木を彫り,印刷・製本をする。草稿ができてから1冊の本になるまでに5〜6年,ときには10年近くかかることもあったという。商品としての本ができあがると,発売許可を受けて一般に売り出される。初版はせいぜい200〜300部程度だが,1,000部も出ると“千部振舞”といって,自家の職人や店員一同を引きつれ神社に参拝,酒肴を饗応して祝った。
【明治初期の開版文化】明治維新後,文明開化の波に乗り,本の世界にも内容はもちろん,外形的にも年ごとに洋式化が進んでいった。楮や三椏(みつまた)の手漉の和紙がパルプを原料とした機械漉の洋紙に,印刷も木活字が鉛鋳造活字に,木版が活版に,手摺が機械刷に,さらに石版や写真版も使用され,製本様式も和装本から洋装本へ移行していった。1872年(明治5)学校制定の発布とともに,文部省内に編集局・翻訳局が設けられ,小学校教科書のほか,西洋の各科啓蒙書・専門学術書などの翻訳・出版が盛んに行われた。そのなかには歴史・哲学・科学・数学・工学・理学・文学など,あらゆる分野の本が含まれ,開化期の明治初期教育界に貢献するところが多かった。文部省は早くから印刷所を設け,印刷・出版を行い,民間の印刷・出版業を刺激し,発展を促した。当時文部省の代表的な啓蒙出版書として『百科全書』(1873〜83)があげられる。イギリスの“Information for the People”(1841〜)の翻訳書で,天文・地理・歴史・宗教・哲学・理学・文学・教育・工業・農業など各科にわたる常識的・啓蒙的なもので(合計93冊),新知識による一応の常識を得る好個の百科事典として喜ばれた。明治初期の開版文化に貢献した人に福沢諭吉(1835〜1901)がいる。著書の『世界国尽』『学問ノススメ』『西洋事情』『文字の教』『新女大学』などいずれも好評を博し,『西洋事情』初篇3冊は販売部数20万部を越え,『学問ノススメ』は17篇合せて340万部を売り,各地に海賊版が生ずるほどだった。中村正直(敬宇,1832〜91)はサムエル=スマイルズの『自助論(Self-Help)』を翻訳,『西国立志編』(1871刊)と題して上梓したが,スチュアート=ミルの『自由之理』(1871年刊)とともに非常な売れ行きを示した。『西国立志編』は福沢の『西洋事情』・内田正雄の『輿地諸略』(1873刊)とともに明治初期の3大名著といわれ,いずれも洛陽の紙価を高めた。
【聖書の邦訳】最初の聖書の邦訳・刊行は,いずれも外国人宣教師の手で行われた。ドイツ人のカール=F. A=ギュツラフ(1803〜51)は『ヨハネ伝福音書』を翻訳,1837年シンガポールで上梓。全文片仮名で「三吉の聖書」といわれるもの。またイギリス人宣教師医師 B.J.ベッテルハイム(1811〜70)は沖縄で『ルカ伝』『ヨハネ伝』『使徒行伝』『ロマ書』を邦訳,1855年ごろ香港で木版印刷に付した。この本は1873〜74年に改訂版がウィーンで刊行された。さらにアメリカの宣教師 J.ゴーブル(1827〜98)は1871年(明治4)秋『摩太(マタイ)福音書』を平仮名木版刷で横浜から刊行,アメリカ人宣教師ジェームズ= C =ヘボン(ヘブバーン,1815〜1911)とサムエル= R =ブラウン(1810〜80)の手になる馬太(マタイ)・馬可(マコ)・路加(ルカ)・約翰(ヨハネ)の4福音書が1873〜75年(明治6―8)までに刊行,さらに『新約聖書』の全巻は1880年(明治13),『旧約聖書』全巻は1888年(明治21)に完了。明治以来の日本の精神界・文学界に大きな影響を与えた。
(2/3:続く)
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