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本 ほん
書物・書籍・典籍・ふみなどともいう。本来“本”は木の下の方に一を加えたもので樹木の根幹を意味し,それが転じて,ものの本元・根本を表し,木の上部に一を添えた末と対比される。人間の思想や感情を表す文章や絵画を紙葉に印刷,または書き写し,綴じ合わせて保護のため表紙をつけたもの。イギリス出版協会では,1冊6ペンス以上のものでなければ本とはみなさず,また1950年のユネスコ会議は,表紙を除き,49ページ以上の非定期刊行物を“本”と定義している。
【本の語義】本を表す英語の book ,ドイツ語の Buch ,オランダ語の boek などの語源はブナの木から来たものといわれる。往昔,まだ紙や印刷が発明されなかったころ,書写の材料としてブナの樹皮が使用され,本の表紙の芯に板紙の代わりにブナの板を用いたので,その名が“本”の意に用いられるようになったのだろうといわれる。さらに本を表すフランス語の livre ,イタリア・スペイン語の libro はいずれもラテン語の liber から由来するもので,本来 liber は樹皮の意を表すものだが,木の皮,もしくは薄くした木板を書写の材料に用いたところから,その語がいつか本の意をもつようになった。英語の library(図書館)・フランス語の書店(libraire)もこの語から発生したものである。英語で Bibleといえば,今日ではだれでもキリスト教の聖書(Holy Bible)をさすものと思っているようだが,初めからそのように限定されたものではなく,本来は一般の“本”を意味していた。しかし多くの本のなかで最も尊重されるべき本,まことの本,本のなかの本ということで,Bible =聖書になったのである。古代エジプト人はナイル河畔に繁茂する水草の髄をとって紙のようなものをつくり,書写の料とした。エジプト人は自分で使用したばかりでなく海外にも輸出した。当時貿易の盛んだったフェニキア(今日のレバノン)では,文化の中心地で貿易港でもあったビブロス(現在はベイルートの北方約30kmのジュバイル)を通じ,広く海外に再輸出した。ギリシアではこの水草の髄でできたものを,名前の判らぬままビブロスから来たものとして“パピュロス”と呼び,ローマ人は“パピルス”と呼んだ。これが paper(紙)の語源となり,これでつくった本を“ビブロス”と呼んだ。これが“バイブル”に転化し,聖書の意に用いられるようになったのである。さらにビブロスは書物関係の語源となり,本の収蔵場所をラテン語では bibliotheca ,また bibliography(書誌学)・bibliophile(愛書家)・bibliopegy(製本術)・bibliopole(本屋)など,biblio は“本”の意の複合用語として広く用いられるようになった。
【本の意義】〈文化の存する所に必ず本があり,本のない所に真の文化はない〉といわれる。試みに世界にあるすべての本がいちじに消滅したとしたらどうだろう。考えただけで空恐ろしいではないか。デンマークの医学者トマス=バルトリヌス(1616〜80)は『論説集』(1672)のなかで,〈本がなければ神も物いわず,正義はちっ居し,自然科学は静止し,哲学は足なえとなり,文学は聾し,世はいわゆるキンメル族(ホメロスの詩で世界の西の果てに露と暗黒のなかに住むといわれた種族)の常暗のなかにひきずり込まれるようなものである〉といい,またダラム(イギリス)の司教でたいへんな愛書家としても知られたリチャード=ド=ベリー(1281〜1345)は,世界で最初の,しかも最良の愛書に関する本だといわれる『愛書経』の中で〈もし神が人類に“本”という救いの道を与えなかったなら,万物は時間とともに腐敗し滅亡したに違いない。そしてサトゥルヌス(古代イタリアの農耕神)は自分のお腹を痛めた子を食べつづけ,世のすべての栄光は忘却の彼方に葬り去られてしまっただろう〉と述べ,本の偉大な力を誉め称え,人間がつくったもののうちで最上のものであるとし,万物に卓越するものであると,最大級のことばで賞賛している。彼はまた同じ本のなかでこうもいっている。〈本によって教えられる喜びのいかに心やすく神秘なことか。人間の無知・貧しい知力を本の前に示しても,少しも恥かしい思いをすることはない。本は棒やムチを振わず,怒ったことばを用いず,衣服や金銭を贈らなくとも,われらを教え導いてくれる良教師である。諸君がいつ訪ねていっても眠っているようなことはなく,また尻ごみすることもない。たとえ諸君が間違ったことをいっても,叱ったり責めたりせず,どんな無学でも笑ったりしない。おお,本よ! おん身は自由でなんの束縛もなく,求める者にすべてを与え,忠実に仕える者を解放する。もし神が人類に本を与えなかったら,人生はいかに味気なく,淋しくはかないものになったであろう〉と。『フィロビブロン』は六百数十年前の本だが,そのことばの真実さは今日も変わらず,いいかえれば,本は時間と空間に際限なく,長く広く人知を伝えるものとして,きわめて重要かつ独自の役割をもち,人類の歴史のうちにそれを果たしながら,現在にいたっているのである。
【パピルスの本】本といえば,われわれは“紙に印刷したもの”を連想するが,紙は前1世紀ごろ,印刷は8世紀の初めごろ,ともに中国で発明された。しかし本はそれよりはるか古い時代からあった。古代文明の発生の地の一つに数えられる古代エジプトでは,前3000年ごろから,ナイル河畔に繁茂する水草パピルスの髄から紙のようなものをつくり,それにエジプト文字(象形文字)を書き記し,書写体をつくった。現存するパピルス文書のなかには前3350年ごろのものもある。古いものではルーブル博物館所蔵の『パピルス・プリス』(前2500年ごろ作)・大英博物館所蔵の『アニの書』(前1250年ごろ作)などが知られている。
【古代エジプトの書記】エジプトのピラミッドの壁には,書記(スクライブ)の姿を描いた絵が多数残っている。古代エジプト人の多くは自分で字が書けなかったから,書記に書いてもらった。エジプトでは書記になることが出世のいとぐちで,野心に富んだ子供たちは〈一所懸命勉強して書記になれ,そうすれば立派な指導者になれる。勤勉で本を軽んじなければ偉い人になれる〉と,つねに親たちから励まされていた。そこで大望を抱く才能のある少年たちは,なによりもまず読み書きを習った。パピルス紙の上に葦のペンで,出世に役立つ金言集を書き写したり,手紙や請願書の書き方を先輩の書記たちから教わった。現存するパピルス文書にある父親がその子に“書記になれ”と勧めた,次のような手紙がある。〈書記になればすべての力仕事から解放され,敵の手から守られる。鍛冶工はいつも熱い炉の前で仕事をしなければならず,手指はワニの脚のようだ。大工は毎日石瓦の検査にしたがい,夕方になると両腕は重く,ももや背骨はばらばらになって体じゅうがうずく。水夫はブヨや蚊に悩まされ死ぬことすらある。畑の溝掘りは馬や豚のあいだで作業をし,上着は泥でこちこちになる。隊商(キャラバン)は途中でライオンや追剥に襲われる心配があり,へとへとになって帰って来る。パン焼き職人はかまどのなかに首をつっこんで仕事をしているとき,子供が足にまつわりつき,そのはずみで火のなかにつんのめるかもしれない。だが,書記は兵隊にひっぱられることも,戦争に行く心配もなく,税に苦しめられることもなく,みんなに尊敬されながら立派な仕事をすることができる〉。
【古代エジプトの本づくり】サッカーラのティイ女王の墓は前2500年代のものだが,壁の浮彫に作業中の書記の姿が描かれている。小さなテーブルの上に,でき上がったパピルスの巻物が積み上げられ,テーブルの前には座ったままで仕事をしている書記が2名,ほかに助手でもあろうか,同じ姿の者が描かれている。左手に1巻のパピルスをもち,右手に葦のペンをもつ。さらに余分のペンを耳にはさみ,膝のところに2個のインキ壺と筆入れのついたパレットが置いてある。書写に用いるインキは,メランといって油煙に水とアラビアゴムを加えたものや,没食子・緑色硫酸・水でつくったもので,前者は真黒で褪色しないが,後者はときのたつにしたがい,美しい薄褐色に変わる。これらのインキは木製のパレットに保存し,必要に応じ使用するようになっている。インキは海綿で簡単に消すことができたので,パピルスは再利用が可能だった。エジプト人は何か覚えなければならぬときは,パピルスに字を書き海綿で消し,その水を飲む習慣があった。色インキは鉱物質でつくったが,藍色はルリ礦石で,赤インキは鉄の赤さびを用いた。赤インキは主として文章の書き出しに用いたが,これは古代ギリシア・ローマに引きつがれた。ペンは今日のペンと筆の中間のようなもので,葦を鉛筆ぐらいの長さに切り,先を細くして噛みくだき,繊維をやわらかくして使用した。鵞鳥の羽などの先を斜めに切り,割れ目を入れペンに用いるようになったのは中世時代に入ってからのことである。
【ロゼッタ石】古代エジプトでは絵文字が用いられていたが,それが簡易化され象形文字となり,神聖文字・僧用文字・民用文字と3種の文字がそれぞれの用途にしたがって用いられた。これらの文字は3,000年以上も使用されていたが,その後ギリシア文字の移入とともに,5世紀以後はまったく使用されぬまま死語となり,不解文字となってしまった。1799年ナポレオンのエジプト遠征の折,フランスの一士官がアレクサンドリア近くのロゼッタ川の河口で,黒い玄武岩の石碑を発見した。石碑は発見された場所の名をとって「ロゼッタ石」と呼ばれた。碑文はヒエログリフ(神聖文字)とデモティク(民用文字)のエジプト文字と,ギリシア文字の3通りの文字でしるされており,ギリシア文字によって,その碑は前196年3月27日に建立されたプトレマイオス5世(エジプト王,前210?〜前181)の頌徳碑であることが判明した。その後エジプト文字については,フランスのエジプト学者ジャン=フランソア=シャンポリオン(1790〜1832)が,ロゼッタ石を手がかりに解読に成功,今日古代エジプトの歴史はほとんど解明されるにいたり,シャンポリオンは“エジプト学の父”と仰がれている。
【粘土板――楔形文字】チグリス・ユーフラテス両河川に挟まれたメソポタミア(ギリシア語で“川のあいだの土地”の意,いまのイラク)地方は,4大文明発生の地の一つに数えられる。この地方に住むシュメール人・アッカド人・バビロニア人・アッシリア人たちは,書写の材料としてこの地方に産出する粘土で粘土板や粘土棒をつくり,粘土のやわらかなうちに先の尖った尖筆(スタイルス)で文字を形づくっていった。文字を構成する線の1本1本が楔(くさび)の形をしているところから,楔形文字と呼ばれた。楔形文字はバビロニア・アッシリアなどで多年にわたり使用されていたが,いつのまにか使われなくなり,かつてのエジプトの象形文字のように不解文字となってしまった。1847年イギリスの若い士官ヘンリ= C=ローリンソン(1810〜95)が,当時イギリスの統治下にあったペルシア(いまのイラン)に派遣されていたとき,西部ケルマンシャー付近のベヒスツーンの90mもある高い岩壁に刻まれた碑文に興味をおぼえ,それを写しとった。碑文は新楔形文字のペルシア語と,バビロニア語・スーサ語の三様で記され,字の読めない人のために絵解きが添えられてあった。ローリンソンはこの古代の楔形文字に取り組み,種々苦心の末,解読に成功した。碑文はアケメネス朝の征服王ダレイオス1世(在位前522〜前486)の功業を後世に伝えるためのもので,ダレイオス1世の凱旋と即位の様子がしるされてあった。楔形文字解読のカギをひらいたヘンリ=ローリンソン卿は“アッシリア学の父”と尊称されている。世界の歴史のなかで,古代のバビロニア・アッシリアの歴史ぐらい,今日まで正確に伝えられているものはないといわれる。それらの地方の古都バビロン・ニネベ・スサ・ニップールなどの廃墟が発掘されたとき,数千年前の楔形文字の刻まれた粘土板が,いちどに数万個も発見されたことがある。1840〜47年イギリスのオースチン=H=レヤード卿(1817〜94)がニネベで,世界最古の図書館といわれるアシュール=バニパル(古代アッシリアの王,在位前669〜前626)の王宮文庫を発掘し,2万2,000個の粘土板を発見した。そのなかには,当時アッシリアで知られていた動物の全部の名がしるされ,また『ギルガメシュの叙事詩』といわれる全12巻の長編,旧約聖書の「天地創造の話」や「ノアの大洪水」について書かれたものもあった。
【パーチメントやベラムの本】海外ではパピルスや粘土板についで,パーチメント(羊皮紙)やベラム(仔牛皮紙)が書写の材料として使用された。使用され始めたのは前3世紀ごろからで,小アジアから古代ギリシア・ローマに及び,やがてヨーロッパ全土で使用されるようになった。これらの材料は丈夫で耐久力に富み,パピルスのように破れる心配がなく,表面の光沢は細密画で飾る彩飾写本をつくるのに適していたが,難点は1枚1枚獣皮を用いるので非常に高価についたことである。なおパピルスを用いた本は巻物だったが,パーチメントやベラムが使用されるとともに,今日のような冊子の形態となった。そして13世紀のころ,中国から今日のような紙の製法が伝わるまで,ヨーロッパでは主としてパーチメントやベラムが書写の材料として使用されていた。
【ギリシア・ローマ時代の本】ギリシア・ローマ時代には,都市文明の発達とともに本の生産も行われ,大きな本の製作工房も設けられ,多数の教養のある奴隷が雇われ,書写の仕事に従った。前5世紀には文化の中心地アテナイに,すでに出版社や本屋のあったことが伝えられている。これらについては,イギリスの古典学者フレデリック=G=ケニオン卿(1863〜1952)の『古代の本』(1932,高津春繁訳の岩波新書版がある)があり,エリク=ド=グロリエの『本の歴史(Histoire du Livre)』(1945,大塚幸男訳のクセジュ版がある)がある。ヘレニズム時代,エジプトのプトレマイオス王朝によって,アレクサンドリア市に建設されたムーセイオンは博物館・図書館・研究所を兼ね備えたもので,世界の学者が集まり研究に励んだ。ここに蒐められた蔵書数は50万〜70万巻といわれた。また小アジアの文化の中心地ペルガモンの王エウメネス2世の建設した文庫には,20万巻の本が所蔵されていたという。そのころの出版はこれらの図書館とつねに連携をとり,蔵書のなかから適当なテキストを選び,校訂し原本を定め,それによって販売用の複本がつくられた。いちどにたくさんの複本が必要なときは,一人の読み手が部屋の中央で高声で読み上げると,多くの写字生がいっせいに筆を走らせた。古代ローマでは,書肆(しょし)が読み書きのできる奴隷を雇い入れ,一人の読み手が部屋の中央に席をとり,声高に原文を読み上げると,20名またそれ以上の写字生がいっせいに書き取った。このように安い経費でいちじに多くの複本ができたので,たとえばローマの有名な詩人マルティアリス(40?〜104?)の『エピグラムス』(寸鉄警句詩集)や,ヴェルギリウスの『アエネイス』(叙事詩)などは1部5デナリで入手できたという。ローマ時代の出版物には今日のような著作権はなく,本の利益は全部書肆のふところに入り,著者には1文も渡らなかった。著者のおもな収入はその作品を捧げた高貴な人から贈られる金品であり,ときとしてこれは相当な額に達した。富裕な作者は知人を自宅に招き,山海の珍味でもてなしながら,みんなの前で作品を声高に朗読し,感想や批評を聞くのをつねとした。ローマを焼き,その罪をキリスト教徒に被せ,ライオンの檻に投げ入れたといわれる暴君ネロ(ローマ帝国第5代の皇帝,37〜68)は,ギリシア文化に心酔し,詩・音楽・哲学を愛したが,自作の詩を純金で書かせ,宮廷の廷臣たちに読み聞かせたという。この詩はのちに金色に飾られたローマの主神ジュピターの神殿に奉納されたといわれる。ローマでは著作権とか版権などはなく,他人の著作を勝手に出版できたので,海賊版などおこるわけはないが,本の検閲はすでに行われ,発売禁止になったり没収されたり,禁書の厄にあった本もしばしばあったという。
【中世時代の本づくり】375年フン族(匈奴)が南ロシアから西進したのに伴い,ゲルマン民族の大移動が始まり,395年のローマ帝国の東西分裂,476年西ローマ帝国の滅亡となり,古代ギリシア・ローマ文化の崩壊を促し,果てしない戦争はかつて文化を誇った地中海沿岸の諸都市を荒廃にみちびき,いわゆる文化的暗黒時代(Dark Age)を現出し,教養ある人ばかりでなく,簡単な読み書きのできる人の姿すら容易に見ることができず,自分の名前を満足に書けぬ王もいたといわれるほどだ。かつて数十人,数百名の写字生を抱え隆盛を誇ったローマの書肆も作業室を閉じ,学問は一部の貴族と僧侶の専有物となり,一般庶民はいずれも文盲の徒ばかりで本の必要を認めず,わずかに深い森の中や人跡まれな山間の僧院で,自分たちの霊魂を救う聖典の製作に余念のない修道僧の姿をみるにすぎなかった。大きな僧院にはどこにも書写室が設けられ,僧侶たちは日課として,毎日一定の時間そこで書写の仕事に従った。書写室はきわめて簡単で,机・椅子・インキ・鵞ペン・ペンナイフ(鵞ペンの先を削るもの)・羊皮紙(パーチメント)・軽石(羊皮紙の表面をなめらかにするもの)・大針(罫線をひく目じるしをつけるもの)・罫線用の定規・原本をのせる台・文鎮などが用意されてあった。僧院の写字僧はもはやローマ時代の営利を目的とした書肆に雇われた奴隷などではなく,神の栄光を現すための聖書の複製や,そのほかの聖業にたずさわる修道僧たちで,ここでは正確と荘厳とが重んぜられ,豪華な彩飾写本が生み出された。写字僧が聖典の書写を始めるには,まず作業の前に十字を切り,神に祈りを捧げてから仕事にとりかかった。作業中はいっさいの沈黙を守り,まず絵心のある者が文章の冒頭の頭文字(イニシアル)や輪郭を金銀泥や絵具で飾り,本文は1字1字丁寧に原本と照らし合わせながら書き写していった。1冊の本を書き写すのに幾週間も幾月もかかった。また書写に用いるパーチメントやベラムはなかなか高価で,聖書1冊をつくるには羊や仔牛の皮を何百枚も要したので,このような本を求めようとすれば,非常に高価なものになったはずである。すぐれた彩飾写本になると,金銀泥や絵具で飾り,精巧緻密な細密画が描かれた。このような本は多くの人手を要し,たとえば,一人が獣皮を処理し,次の人が軽石で磨き,第3の人が原本を書き写し,第4の人が頭字や飾枠を描き,第5の人が細密画を描き,第6の人が原本と照合し,第7の人が製本を担当した。本の表紙には樫板が用いられ,その上を豚・羊・山羊・仔牛の皮,またはビロードでくるみ,真鍮の板金や象牙の板で飾り,留め金(クラスプ)をつけた。高価なものには宝石や貴金属をちりばめ,留め金も金銀を用いた。このような宝石製本はもはや製本師の仕事ではなく,むしろ金銀細工師の仕事というべきである。このようなビザンツ風の豪華装丁はカール大帝(742〜814)時代,西欧でも盛んに行われ,その技法は完璧に近いものであり,すぐれた作品も多く残っているはずだが,宗教改革の折,プロテスタントの人々が,表紙に飾られた画像類を剥ぎ取り,イギリスではエドワード6世(1537〜53)の治世に〈教会内の経典を飾る金銀・宝石類はすべて剥ぎ取り,国王の内帑に納めよ〉との布告が出て,その多くは無残にも破壊されてしまった。中世時代の本は今日のように書架に収納せず,僧院の図書室では斜めになった書見台に1冊ずつのせ,本の端に鎖をつけ,その鎖を書見台の一部にとりつけ,よそに持ち運べないようにした。本が少なく高価だったので,書盗を防ぐためのものであろう。このような鎖つきの本は,18世紀の半ばまで一部ではみられた。
【日本の本】わが国の古い文化のほとんどは,中国や朝鮮の影響を大きく受けたが,本の場合も同じようなことがいえる。大和朝廷の応神天皇(4〜5世紀)の招きで,百済の王仁(伝説上の人物,学問の祖といわれる)が来朝し,『論語』10巻・『千字文』1巻を献上,漢字が使用されるようになったといわれるが,それまでわが国に固有の文字はなかったのだろうか。漢字が伝わる以前“生きた本”または“人間書物”とでもいうべき語部(かたりべ)のあったことは事実である。わが国最古の歴史書『古事記』3巻(712成立)は,天武天皇(622〜686)の勅命で語部稗田阿礼(ひえだのあれ)がよみならわせたものを,太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇の命で撰録したもの。これに次ぐ『日本書紀』30巻は720年(養老4)太安万侶らの手になる。十七条憲法の制定者聖徳太子(574〜622)の著作と伝えられるものに,勝鬘(しょうまん)・維摩(ゆいま)・法華3経の義疏(ぎしょ)がある。推古天皇の19〜23年(611〜615)に完成されたもので,日本人による著作第1号,日本の本はこの本から始まるといわれる。三経義疏のうち『法華義疏』4巻だけ,太子自筆といわれる稿本が現存,御物として宮内庁に秘蔵されてある。
【天平の写経】『日本書紀』によると,673年(白鳳3)3月,奈良明日香村の川原寺(弘福寺)で,初めて一切経を書写したことが記されてある。これは官命による写経の嚆矢(こうし)といわれる。奈良時代(710〜794)は律令国家の隆盛期であるが,当時の仏教は今日のような民間信仰ではなく,国家的に取り上げられ,弘通が計られ,寺院・僧職についての行政面はもちろん,経典の製作・写経に従事する者の養成などはすべて政府の手で行われた。正倉院文書によると,聖武天皇の天平時代から,供養のための写経が盛んに行われ,朝廷では写経司を設け,写経の職務を司らせ,いちじ写経生の数は600名にも達したという。このようにして,奈良時代には仏教の興隆に伴い,写経事業は組織化され,大規模となり,朝廷の最大事業の一つとなり,歴代の天皇や皇后の願経もしばしば行われた。
【平安時代の摺経】本の製作に必要な紙と印刷はともに中国で発明され,わが国にはそれぞれ朝鮮をへて伝えられたことは,【紙】および【印刷】の項で述べている。わが国には長いあいだ,世界最古の現存印刷物といわれた『百万塔陀羅尼』(770刊)がある。この仕事は157名の者がおよそ6カ年を費やして完成したもので,奈良の大仏・国分寺建立とともに,奈良時代の3大仏教事業の一つに数えられる。しかし,その後およそ300年間開版事業はいっさい行われなかった。なぜか,一言にしていえばその必要がなかったのだろう。平安時代(794〜1192)の文化は,いわゆる貴族文化で,一般民衆にはなんのかかわりもなく,必要な本はすべて書写でこと足りていた。当時貴族のあいだで広く行われていた仏教信仰は,除災増福・死者の冥福を祈るもので,写経の功徳を説き盛んに行われた。しかし時代とともにその数がふえ,やがて写経から摺経へと転移していった。平安時代,本の印行について記された記事のなかで,最も古いのは藤原道長(966〜1027)の『御堂関白記』で,そのなかには『法華経』1,000部印行のことがしばしば出てくる。もっとも現物は何も残っておらず,現存のもので刊記のある最古のものは,正倉院蔵の『成唯識論』で,同書第10巻の巻末に,堀河天皇の寛治2年(1088)5月26日興福寺において,僧観増の手で印行された旨が記されてある。
【平安文学】日本人の手になる古い本には,奈良時代のものに712年(和銅5)作『古事記』3巻,713年(和銅6)作『風土記』,720年(養老4)成立の『日本書紀』30巻,751年(天平勝宝3)作『懐風藻』,8世紀後半成立の『万葉集』20巻などがある。『懐風藻』は日本で最初の漢詩集。『万葉集』はわが国最古の現存歌集。約400年の歌およそ4,500首をおさめ,作者も天皇・皇族はじめ一般庶民まであらゆる階層にわたっている。平安時代には藤原継縄・菅野真道らの『続日本紀』(799成立),斎部広成撰『古語拾遺』(807作),『日本霊異記』(822完成),菅原道真の『新撰万葉集』(893成立),紀貫之らの『古今和歌集』20巻(905作),『竹取物語』(9世紀末成立),などがある。さらに醍醐天皇の勅命により編纂された『延喜式』(901〜923成立),紀貫之の『土佐日記』(935ごろ成立),『蜻蛉日記』(974成立)・『和泉式部日記』(1004成立)・『更級日記』(1058ごろ成立)などの王朝女流日記を生み,紫式部の『源氏物語』54帖(1004〜11ごろ成立)を生む契機となる。このほか,平安文学としては,美男子業平(なりひら)をめぐる王朝の色好み『伊勢物語』(10世紀後半作),『宇津保物語』(平安中期作),『落窪物語』(10世紀後半成立),『枕草子』(995〜999作),『将門記』(940作),『往生要集』(985年作),『和漢朗詠集』(1013年成立),『本朝文粋』(1037〜46成立),平安後期の歴史を語る『大鏡』,『梁塵秘抄』10巻(1179ごろ成立),『堤中納言物語』(平安中期〜後期成立),『今昔物語』31巻(平安末期作),『狭衣物語』4巻,西行の『山家集』2巻などがあげられる。
(1/3:続く)
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