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●ポルトガル

ヨーロッパ ポルトガル共和国 AD 

 イベリア半島の南西に位置する独立国。

【概説】ポルトガルは,大西洋岸の平野地帯・北部高原地帯・中央山岳地帯・南部高原地帯の四つに区分される。大西洋岸の南部・西部の平野には多くの農村・漁村や,リスボン・ポルトの2大都市がある。北部高原・中央山岳地帯・南部高原は,スペインの巨大なメセータの延長である。全体としてゆるやかな丘陵地帯をなしているが,小山脈が平野をところどころで切断している。ポルトガルで最も高い山はエシュトレラで,1,993mである。ドーロ川テージョ川(スペインではタホ川)が,東から西に流れている。ドーロ川はポルトで,テージョ川はリスボンで大西洋に注いでいる。グワディアナ川は,スペインとの国境の一部をなしている。テージョ川はポルトガルを二分し,テージョ川北部の人口密度は高いが,南部は低い。北部には小農園が,南部には大農園がみられる。また政治的に北部は南部より保守的である。

 国全体として気候は温暖で,ヨーロッパでは最も恵まれている。秋と冬は気温が低く,とりわけ山岳地帯に雨が多いが,夏と春は気温が高く乾燥している。ポルトガル全土の平均気温は7月には70°F,1月には10℃である。

 ポルトガルということばは,ガリシア人のヴィマラ=ペレスが国土再征服運動のさいに再建したスウエイ族の城塞ポルトゥカーレに由来する。

 ポルトガルの人口は1,080万を越す(1982年調べ)。そのうち3分の1がリスボンとポルトに集中している。ポルトガル最古の住民はイベリア人で,およそ5,000年前に住んでいた。さらにケルト人・ゲルマン族・フェニキア人・ベルベル人・ギリシア人がまざりあってポルトガル人を形成した。1960年の半ばから,ポルトガルの以前の植民地から,多数の黒人が移住し,少数者グループを形成している(くわしくはスペインの項参照)。

【アビシュ朝】前201年ローマ帝国が第二ポエニ戦争でカルタゴを破って,イベリア半島を征服した。ローマ人が現在のポルトガルにあたる地域の征服を完了したのは,キリストが生まれたころである(ローマはこの地域をルシタニアと呼んだ)。ローマは300年後半にキリスト教を公認し,ポルトガルも同時にキリスト教国となった。西ゴート族の征服下においても,ポルトガルはキリスト教国であった。700年前半に侵入した北アフリカのイスラーム教徒は,ポルトガルの文化に影響を与え,新しい農作物を導入し,アラブ的建築を残した。ポルトガルの再征服が完了したのは,スペインよりおよそ240年早く,1249年であった。12世紀ごろまでのポルトガルの歴史は,スペインの歴史とほぼ同じである(ここまでスペインの項を合わせて参照されたい)。

 8世紀以来,国土再征服運動レコンキスタ)にブルゴーニュのアンリ王が加わった。1096年カスティリャアルフォンソ6世は,アンリにポルトとコインブラを与え,彼をポルトガル伯に任命した。当時ポルトガルはまだスペインの一部とみなされていた。アンリの息子アルフォンソ=エンリケシュはイスラームに対して勝利を重ね,1143年に独立してポルトガル王となった。1385年,新たな王家アビシュ朝のジョアン1世は,イギリスと同盟を結んだ。これはヨーロッパ諸国間の同盟のなかで最も古いものである。

【大航海時代】15世紀以前に,すでにポルトガルの商人や漁夫は大西洋を航海し,航海術は進歩していた。ジョアン1世の子エンリケ航海王は多くの探検隊を援助したが,彼らは1419年にはマデイラ諸島,1431年にはアゾレス島に達し,エンリケの死んだ1460年には,すでにアフリカ西部のシェラ=レオネまで到達した。また1488年バルトロメウ=ディアス喜望峰を迂回した。1495年マヌエル1世は即位するや,国威の高揚のために,南アフリカからアジアにかけての大航海を企画した。彼が派遣したヴァスコ=ダ=ガマは喜望峰をまわって1498年インド航路を発見した。この時期のポルトガルの活躍はめざましく,ブラジル(1500)・ゴア(1610)・マラッカ(1611)・セイロン(1616)・マカオ(1618)・種子島(1643)に探検隊が到達している。西アフリカからの金,インドの香料・アフリカの奴隷貿易・ブラジルのダイアモンドはポルトガルに巨大な富をもたらし,黄金世紀が到来した。

【没落と復興】ポルトガルが広大な植民地を失ったのは,20世紀に入ってからだが,その没落はすでに16世紀に始まった。巨大な帝国の運営のために,船舶・兵士・水夫などが不足していた。17世紀に入るや,イギリス・ネーデルランド・フランスなどがその弱点につけこみ次々とポルトガルの植民地に拠点を設け始めた。また貴金属のインフレーションは,富の国外流出を招き,国内にブルジョワジーは育たなかった。また国内の農業生産力を育成できず,都市手工業はたちおくれ,貿易は少数の商人を利するばかりだった。さらにスペインにならって,厳しい異端審問制を始めたために,多数のイスラーム教徒・ユダヤ人が投獄されたり殺害されたりして国内は荒廃した。

 1578年国王セバスチャンが死亡し,その淑母の夫スペイン王フェリペ2世は1580年ポルトガル王位を継承し,その後60年間ポルトガルを支配した。ポルトガルはスペインの三十年戦争(1618〜48)やカタルニアの反乱(1640〜52)に巻き込まれ,スペインの敵だったオランダ・イギリスに通商路はたえず脅かされた。ポルトガル国内の不満分子とスペインに対立するフランスが結びつき,1640年ブラガンサ公がスペイン人を国外に追放してジュアン4世として即位した。

 1660年ごろポルトガルは,短期にわたる復興期を迎えた。1703年スペイン継承戦争のさいに,イギリスと結んだミシュエン条約は,イギリスの工業製品の自由な輸入とポルトガルぶどう酒の低関税輸出を保障し両国の通商関係を安定させたが,ポルトガルの工業発展を阻止する結果になった。しかし,イギリスとのきずなは,スペインの介入を排除するのに役立った。実際1703年から1860年にかけてスペインは数回侵略を試みたが,イギリスのおかげでポルトガルは独立を維持できたのである。

 1755年リスボンは大地震によって破壊されたが,新しい都市計画をたて都市を復興させた首相ポンバルは,ポルトガル史上最大の政治家といわれる。彼はイエズス会の解散を断行し,強力な官僚制を築いた。だが啓蒙主義的路線に沿ったポンバルの近代化の試みは,その後ほとんど葬り去られ,経済的にはブラジルに,政治的にはイギリスに依存する旧形態に保った。

【19世紀】1807年ナポレオンの軍隊が侵入したさいジョアン6世はブラジルに亡命し,リオデジャネイロが首都となった。1808年スペインの抵抗に触発され,ポルトガル国民も武器を手に立ち上がり,1811年イギリスの援軍を得て,ようやくフランス軍を国外に追放した。1821年ポルトで反乱がおこり,軍人が主導権を握り有力貴族を巻き込んで9月1日リスボンにコルテスを召集し,スペインの1812年憲法を模倣する「九月憲法」を作成した。1822年ブラジルはジュアンの息子ペドロを皇帝とし,独立を宣言した。九月憲法は1823年ペドロの弟ミゲルのクーデタで廃棄された。ペドロは娘マリアをポルトガル女王にたて,1826年にやや保守的な憲法を制定したが,1828年弟ミゲルが即位し反動政治を行い,憲法は再び無視された。1834年ペドロは,自由主義勢力を結集しミゲルを引退に追いつめた。これ以後26年憲法を支持する大貴族・大商人の憲章党と,22年憲法を支持する産業人・知識人の九月党が,軍人クーデタで交代する状態が20年から30年にわたってつづいた。

 1842年から1846年にかけて,憲章派リーダー,コスタ=カブラルのもとに道路の建設,その他の公共事業の拡大・毛織物業の工業化によって経済は一時的に繁栄したが,イギリスからの借金は増大した。彼の夢はポンバルの再来だったが,税制改革に着手して人民の怒りをかい,辞任に追いこまれた。女王マリアは,ポンバルの孫で憲章党の軍人サルダーニャを後継者に任命した。だが国民がこれをよしとせず反乱をおこしたので,再びカブラルが政権の座につき,結局サルダーニャが5年間安定した首相の地位についたのは1851年のことである。彼は選挙制を認め,予算案を国会で審議させ,地方自治を強化し,九月党の良心を救った。その後憲章党と九月党は,革新党と歴史党(さらに進歩党)と名称をかえ,政権は2大政党のあいだでたらいまわしされた。この結果政情は安定し,革新党の政治家フォンテス=ペレイラデ=ロメロは,道路・鉄道・橋などを建設・拡大した。

 1870年代に入ってポルトガルに共和主義思想が広まり,初めは知識人,やがて労働者の間にも根を張った。1872年初めてストライキが行われ社会主義が誕生し,共和党が結成された。

【共和国の誕生】植民地については,スペインとポルトガルは,別々の道を歩んだ。スペインのアフリカ大西洋岸の植民地が衰退する一方では,ポルトガル領のアンゴラは,新大陸への奴隷供給地として新たな役割を果たした。しかし王室の植民地拡大政策は財政危機に連なった。1890年アンゴラとモザンビークを結ぼうとするポルトガルの探検隊は,イギリスの圧力で本国に引き返さざるをえなかった。この事件は新国王カルロスの名誉を傷つけ,共和派の勢力を強化した。このころから社会主義化した労働者・軍人・知識人のあいだに王室に対する不満がつのる一方だった。1906年カルロスは,首相フランコに独裁的権力を与え,政治危機を乗り切ろうとしたが,逆に民衆の怒りをかい1908年暗殺された。1910年選挙によってリスボンとオポルトで,共和派が圧勝し,カルロスの子マヌエル2世は国外に去った。この結果ポルトガルは,スイス・フランスについで3番目の共和国になった。文化史家テオフイロ=ブラーガが大統領になり,教会財産の廃止・離婚の制度化・貴族の廃止などの政策を実施した。1910年から1926年にかけての共和制はきわめて不安定で,政府が48回,大統領が7回変わり,25回クーデタがおこった。

 共和制の失敗の原因は,あまりに反僧侶主義的改革を行い,北部の農民の反感をかったこと,第一次世界大戦中中立を保ったが,経済的不況のあおりをうけ,国民の生活が苦しくなったことにある。首相アルフォンソ=コスタが,1916年中立を破ってリスボン港に避難していたドイツ・オーストリアの商船をポルトガルが捕獲したとき,政治危機は深まり,1917年クーデタがおこった。しかし王党派の反乱が頻発し,ロシア革命の影響を受けた労働者のデモで共和制は安定しなかった。1921年ポルトガル共産党が結成された。

【両大戦間】1926年ポルトガルの財政危機は決定的なものとなった。危機の収集のためにゴメス=ダ=コスタ将軍,ついでカルモナ将軍による独裁制が始まった。イタリアのムッソリーニ・スペインのプリモ=デ=リベラの成功に影響されたと思われる。1928年サラザールが蔵相に就任し,思い切ったデフレ政策で財政建て直しを始めた。1930年サラザールは全政党を糾合する国民同盟を創立し,1932年首相に就任し独裁制が始まった。サラザールは共和制を形態の上では維持し,主権在民を認めた。しかし実際は規律と服従を国民にしいるファシスト国家であった。1936年に始まったスペイン内戦では,ボルトガルはフランコ軍を支援した。スペイン政府に対するソ連の影響力を憂慮したためである。1942年サラザールとフランコが会見し,両者とも第二次世界大戦においては中立を守ることに意見が一致した。

【第二次世界大戦後】第二次世界大戦の結果民主主義国家の勝利は,ポルトガル国内にサラザールの独裁に対する疑問をめざめさせた。また英・米両国は,サラザールとフランコの引退を希望して圧力をかけ始めた。1945年11月名目上「自由な」選挙が実施されることになり,民主統一運動(MUD)という人民戦線のような団体が出現し,数万人が参加した。しかしサラザールは,ナチス流の秘密警察(PIDE)によってこの運動に対処した。このため MUD は選挙をボイコットし,またそのメンバーは公職から追放されたり逮捕されたりした。このために選挙によって国会議員の顔ぶれはほとんど変わらなかったが,サラザールは独裁国家の印象を薄めるために4年ごとに選挙を行った。1946年アメリカとアゾレス空軍基地貸与協定が結ばれ1949年ポルトガルは NATO に加入が認められた。また1955年には国際連合にも加盟し,ようやく国際社会に復帰するための第一歩を踏み出した。

 1955年ごろに始まった世界的経済の好景気は,都市化・工業化を推進し,西ヨーロッパへ出かせぎに行く者の数が増加した。石油と鉱産物を産出するアンゴラなどのアフリカ植民地は,とくに世界資本主義のブームの影響を受けた。1960年代のポルトガルの観光開発は大成長をとげ,約1,000万の人口に対して,年間200万人の観光客が訪れた。

 このために今までサラザールによって盲目にされていた民衆は,サラザールに対して批判的になってきた。1958年から1961年にかけてウンベルト=デルガード将軍・ガルヴァン大尉の反政府運動が活発になった。 1960年アフリカに新しい独立国が多数生まれた。しかし,ポルトガル領の各地では独立運動は弾圧されていた。1960年代後半から,ギニア=ビサウ・アンゴラ・モザンビークで独立運動が激化した。しかしサラザールは多額の軍事費を投じ,勝つ見込みのない植民地戦争を継続させた。1965年反サラザールの元大統領候補デルガード将軍が,秘密警察によって暗殺された。1970年7月サラザールは死亡し,マルセロ=カエターノがその後継者となった。

【最近の動き】1974年4月25日リスボンで軍がクーデタをおこし,放送局や政府の諸機関を占領した。首謀者は3月半ばにカエターノに解任された前参謀総長ゴメス将軍と,同次長スピノラ将軍であった。カエターノは首相の地位をスピノラに譲り国外に去った。スピノラを中心に臨時政府が発足し,言論の自由・労働組合の許可・自由選挙の実施が宣言された(4月25日の革命は「カーネーション革命」といわれている)。

 48年ぶりに5月1日のメーデーが祝われ,国外に亡命していた社会党党首マリオ=ソアレスや共産党党首クニャルが帰国し,群衆に歓迎された。

 4月25日の革命は,国軍運動(MFA)と呼ばれる反サラザール体制の将校たちの革命であった。彼らは植民地戦争の泥沼で政冶的にめざめ,左翼化した。しかしスピノラ将軍は,アフリカ植民地に自治を認めることによって,植民地戦争を終結させ,アンゴラのような資源の豊かな地域をポルトガルにつなぎとめようとした。これに対して植民地を全面的に独立させることによって重荷を外そうとする考え方の MFA の大尉たちは,スピノラ大統領を無視して,実権を MFA の陰の実力者ヴァスコ=ゴンサルヴェス大佐に与え,1975年8月首相に推した。ゴンサルヴェス内閣は共産党に強く支持され,大胆な銀行・保険会社,ついで重要産業の国有化など過激な政策を次々に実施した。1976年4月の総選挙で,社会党が第1党となったが,ゴンサルヴェスはソアレスに政権を渡さなかったために国内外の批判の矢面に立たされた。国内に内乱の危険も生じたので,共産党はいくぶん慎重なスタンスをとるようになった。1976年4月の総選挙では,社会党が第1党,人民民主党・サラザール系民主社会中央党・共産党がそれにつづいた。大統領には MFA のエアネス大佐が就任し,ソアレスが首相になった。ソアレス内閣は1978年7月までつづき,その後1980年社会民主党のサ=カルネイロ内閣をへて,1983年4月より再びソアレスが首相である。

【宗教・思想】1900年代の初期まで,カトリックは国教であった。1911年政治と教会は分離され,独裁者サラザールも政教分離を宣言した。サラザールの後継者カエターノ首相は,自由主義的政策の一端として学校における宗教教育を自由選択にしようとして教会の怒りを招いた。しかしポルトガルにおけるカトリックの姿は,農村に顕著にみられる。農村ではカトリックの司祭が,政治・教育・社交にいたるまで重要な役割を持つ。1917年聖母マリアが3人の牧童に出現したといわれるファチマには,ポルトガルのみならず全ヨーロッパの20万近いカトリック教徒が毎年巡礼として訪れている。カトリック教徒のほかに,少数のユダヤ人・イスラーム教徒・プロテスタントがいる。

【文学】ポルトガル文学は,ポルトガルが国家として独立した12世紀に始まる。14世紀後半までポルトガル文学は,スペインのガリシアの文学と緊密に結びついていた。自然・恋愛・フランスの吟遊詩人などに関する叙情詩が,ポルトガル語やガリシア語で多数書かれているが,19世紀学者たちによって発見され『三つの歌』あるいは『歌集』に収められた。

 15世紀の年代記作家フェルナン=ロペスは,散文を芸術的表現の器としてみがきあげ,多数のすぐれた歴史家の先駆者となった。その後継者エアネス=デ=アズラーラは,『ジョアン1世の記録』と『ギニアの発見と征服の記録』を残した。

 16世紀には,イタリアのルネサンスの影響をうけ,ポルトガル文学の黄金時代が生まれた。たとえばポルトガルで世界文学史に名前を連ねる二人の文学者カモンイスとジル=ヴィセンテがいる。カモンイスの『ウス・ルジアーダス』はヴァスコ=ダ=ガマのインド航海路の発見をテーマにして,ボルトガルの歴史を背景に,ルシタニア人(ポルトガル人)の栄光を賞讃した不朽の民族詩である。ジル=ヴィセンテの戯曲はスペイン語とポルトガル語で書かれ,時代を諷刺し教訓を与えようとする倫理劇・笑劇・幻想ドラマと多様なジャンルをカヴァーしている。

 またギリシア悲劇の伝統にもとづいたアントニオ=フェレイラの『イネス=デ=カストロ』も特筆すべき傑作である。旅行記としては,フェルナン=メンデス=ピントの『巡礼録』がある。

 17世紀はスペインの占領下政治の衰退を反映してみるべきものは出ていない。18世紀新古典主義運動は,ポルトガル詩の質の向上に貢献した。

 19世紀のロマンチシズムの時代は,ガレートの詩『カモンイス』がパリで出版されたときに始まった。立憲自由主義者のガレートは,詩・小説・評論と幅広く活躍した。同時期の小説家としては,情熱的な小説を書いたカステーロ=ブランコと田園小説のディニースがいる。

 1865年ロマンチシズムに対して反逆したコインブラ=グループの作家たちは,写実主義をとり入れ,社会批判を行った。その代表的作家エッサ=デ=ケイロスはいくつか批判的アイロニーの濃い小説を書いた。

 20世紀に入って,サラザール独裁体制は検閲によって文学における表現の自由を抑圧した。しかし叙情詩は,それに影響されることなく開花した。ポルトガルにおけるモデルニズムは,「オルフェウ」「プレゼンサ」などの文学雑誌を中心におこった。1930年代にはブラジル文学の影響を受けてネオリアリズムが現れた。その作家たちは文学によって政治参加を行おうとした。アマゾン地方における移民としての体験を書いたフェレイラ=デ=カストロや,アゾレス島の生活を書いたヴィトリーノ=ネメシオなどが,代表的作家である。1974年のカーネーション革命ののちは,文学においても政治的関心が濃く,革命の原因,その背景・その不徹底さなどを追究している。とりわけ,女流作家ベッサ=ルィースは重要である。最近亡くなったカリスマ的人物で,首相も勤めた中道派の政治家サ=カルネイロの妻と愛人を書きながら,リスボンとポルト,南・北両地方の文化を対比させた彼女のロマンはすばらしい。

【美術・建築】ポルトガルの美術が開花期を迎えたのは,マヌエル1世の時代,東洋やインド航路の発見された15世紀末である。この勝利と栄光に輝く国民感情は,ゴシック様式のマヌエル風といわれる豪華な建築を生み出した。その典型的な例は,リスボン郊外の港町ベレンのジェロニモス修道院の教会と僧房である。マヌエル風の建築には,王室はフランス・ネーデルランドの彫刻家を起用した。ゴシック期の彫刻のすぐれたものは,墓・祭壇などに集中した。ペドロ1世の墓・アルコバサのイネス=デ=カストロの墓などがそれである。

 ポルトガルの絵画は,フランドルで修業したヌーノ=ゴンサルヴェス(15世紀)によって始まる。彼の傑作聖ヴィンセントの礼拝は,リスボンの古典美術館におさめられている。ポルトガルの肖像画は独自の伝統を保持し,サンチェス=コェリョは,フェリペ2世に招かれてスペインの宮廷画家になった。18世紀には肖像画家としてヴィエイラとセケイラが活躍した。15世紀末の発見の時代には,リスボンは宝石や工芸細工のヨーロッパの中心地となった。

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