●ボリシェヴィキ
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1903年のロシア社会民主労働党の分裂に際し,レーニンの率いた一派。多数派の意で,同党左派の通称。【ボリシェヴィキの成立】19世紀末,ドイツにあってはベルンシュタインらの修正主義,カウツキーらの中道主義の風潮が支配的となっていたが,これはロシアのマルキシズムにも影響を与え,ストルーヴェ・ツガン=バラノフスキーらの経済主義を生んでいた。ボリシェヴィキはこうした風潮に対する批判としておこった。1903年の分裂に際し,レーニンは党が労働者階級の前衛であり,党員は革命に献身すべきことを主張,ブルジョアとの妥協を排し,武装革命を唱え,党員資格と規律の点で厳格性を主張して,マルトフらの率いるメンシェヴィキと別れた。このとき,レーニン一派は一時的に多数派を占めたので,この名を採用した。その後党の指導権は間もなくメンシェヴィキに移り,ボリシェヴィキは実際の支持者が少なかったにもかかわらず政治的に有利な名称をとった。
【その後のボリシェヴィキ】ボリシェヴィキは党機関紙の「イスクラ」(火花)をメンシェヴィキに渡し,1904年末から「フペリョド」(進め)を発刊して自派の主張を進め,1905年春ロンドンに第3回党大会を召集したが,メンシェヴィキはこれに参加せず単独にジュネーヴ会議を開き,両派の対立は深まった。1906年4月ストックホルムでの連合大会でも,ブルジョア民主主義革命におけるプロレタリアの階級的任務・武装蜂起の可否・対ブルジョア政党態度・国会(ドゥーマ)に対する態度などで,両派の意見はまったく対立した。1907年4月のロンドン大会では,ボリシェヴィキが再び優勢となったが両派はもはや一つの政党として存続しえないことが明白となり,徹底的に分裂した。なお,ボリシェヴィキは1905年の革命後,ひきつづき革命が可能として1906年の第1回国会選挙をボイコットしたが,静穏が回復するにつれ,国会を革命宣伝の場としてこれに加わる戦術をとり,第2回国会では18人,第3回および第4回国会では6人ほどの議員を送った。1912年の革命運動が活発化し,党内の空気も戦闘的になるにおよんで,ボリシェヴィキは「プラウダ」を発刊,また正式に自派をまったく独立した政党と宣言した。
【ボリシェヴィキ革命】第一次世界大戦が始まると,レーニンは〈帝国主義戦争の社会主義革命への転化〉を唱え,二月革命後は臨時政府に反対して,新たに組織されたソヴィエトに全権力を集中することを訴えたが,その勢力は徐々にしか成長しなかった。1917年6月の第1回ソヴィエト大会でも,メンシェヴィキ248人,社会革命党285人,ボリシェヴィキ105人の状態であった。7月ボリシェヴィキは臨時政府打倒の蜂起をおこしたが,政府の鎮圧するところとなり,その幹部は再び地下に潜伏した。しかし,8月末のコルニロフ将軍のクーデター事件に際し,臨時政府のケレンスキーがペトログラード=ソヴィエト左翼の援助を求めたことから,ボリシェヴィキの勢力は急速に増大し,二月革命当時,2万3,600人であった党員も,10月には20万人となった。10月10日,党中央委員会で武装蜂起を決定,軍事革命委員会を組織,16日,中央委員会拡大会議で蜂起の日を第2回ソヴィエト大会開催予定の25日直前と定めた。こうして,十月革命により臨時政府を打倒,政権を獲得した。
【革命後のボリシェヴィキ】革命後行われた憲法制定議会選挙で,少数派となったボリシェヴィキは,1918年1月7日,議会を武力で解散,メンシェヴィキ・社会革命党右派の合法的活動の場を奪い,6月4日,党中央執行委員会の決議により,これらを非合法化し,ドイツとの単独講和問題でボリシェヴィキと対立した社会革命党左派は,7月7日,その武装蜂起を機にこれを追放,一党独裁制を確立した。なお,ボリシェヴィキは,1918年3月ロシア共産党,1925年全連邦共産党,1932年ソ連邦共産党と改称。1981年の党員数1,748万人。
〔参考文献〕ソ共産党史翻訳委員会訳『ソ連邦共産党史』第4版,1972,大月書店