●ポーランド分割 ポーランドぶんかつ
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18世紀後半に,3回にわたってプロイセン・ロシア・オーストリアによって行われたポーランド国土の分割。ポーランドはこの結果,消滅した。【ポーランドの事情】ポーランド継承戦争(1733〜35)はポーランドの内紛と諸外国の干渉を示していた。その後も,ポーランドは大貴族を意味するマグナートを代表するポトツキ家とチャルトルスキ家を中心に争い,戦士身分であるシュラフタも両家派に分かれていた。シュラフタは国政への関心がうすく,自己の所領地のある地方にのみ関心をもっていた。こうした状態は都市・市民・商業といったものの発展を阻み,疫病の流行も重なって,ポーランドは沈滞し,国際的地位を低下させた。アウグスト3世(在位1734〜63)の死後,チャルトルスキ家は,かねてから援助を求めていたロシアのエカテリーナ2世の支持を得て,同家出身のスタニスワフ=アウグスト=ポニアトフスキ(在位1764〜95)を王位につけるのに成功した。ポーランドをロシアの保護領にしたいと願っていたエカテリーナにとっては,絶好の機が訪れた。
【第1回分割】フランスで教育を受けたスタニスワフは軍事・財政などに啓蒙主義的改革を加えて,ポーランドを再建させようとした。プロイセンのフリードリヒ2世(大王)は,エカテリーナの野心を恐れ,また,隣邦に強力なポーランドが出現するよりも分裂した状態が好ましいと考えていたので,エカテリーナとともに,カトリック教徒とプロテスタントが不平等に扱われていること,国会の自由拒否権を復活させることを要求した。スタニスワフ王はこれに譲歩したが,シュラフタはバール同盟を結成してロシアと戦い,敗れた。フリードリヒはこれを機に,オーストリア継承戦争や七年戦争で争ったオーストリアのマリア=テレジアが,露土戦争(1768〜74)でロシアが黒海まで進出してくるのを恐れていたのを利用し,エカテリーナを加えて,1772年第1回分割を行った。ポーランド議会には反対の声もあったが,結局この分割を承認(1772年8月5日)した。これにより,ロシアはドニエプル上流の白ロシアとドヴィナ・ドニエプル両川以東を,プロイセンはグダニスク(ダンツィヒ)を除いた西プロイセンを,オーストリアは南ポーランド(ガリツィア)を得た。
【第2回分割】第1回分割のあと,ポーランドでは改革がすすめられ,スタニスワフ王はトルコとの戦争に入ったロシアよりも,ポーランド改革に好意的なプロイセンのフリードリヒ=ヴィルヘルム2世と同盟を結び,1791年5月3日新憲法を発布した。トルコと講和したエカテリーナは,新憲法に反対するポーランドの勢力の要請に応じて,1792年ポーランドに軍を送り,フランス革命で出兵できないオーストリアをのぞき,プロイセンも同盟を破棄してヴィエルコポルスカ(ポーゼン)を占領した。これを承認させるためにロシアとプロイセンの圧力で開かれたポーランド国会は,1793年1月23日ロシアにウクライナの大部分とベロルシア東半(白ロシア西部)を,プロイセンにヴィエルコポルスカとグダンスク割譲を承認した。ロシア・プロイセンは西ヨーロッパ諸国がフランス革命に追われている機会を利用した。
【第3回分割】第2回分割に対して,コシチューシコを指導者とする愛国派が1794年,クラクフで決起し,ロシア軍を破り,1794年4月にはワルシャワなどでも決起がみられた。しかし,援助を要請されたフランスの国民公会は動かず,第2次分割に遅れたオーストリアは第3次分割を要求し,ロシア軍につづいて入ってきたプロイセン軍にコシチューシコの軍が敗れ,10月にはロシアに決定的な敗北を喫して捕虜となった。11月にはワルシャワが陥落して終わった。1775年10月24日エカテリーナの手でポーランド王国の存続を考えていたスタニスワフの願いも空しく,ロシア・プロイセン・オーストリアのあいだで,残った国土はすべて分割され,スタニスワフは退位,ポーランドは第一次世界大戦終了時まで,地図の上から姿を消すことになった。
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