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●ポーランド

ヨーロッパ ポーランド共和国 AD 

 東ヨーロッパ北部にある人民共和国。

【国土】面積は31万2,730平方km,わが国の5分の4,人口は3,500万人を少し超える程度である。北はバルト海に面し,西は東ドイツ,南はチェコスロヴァキア,東はソ連と国境を接している。首都はワルシャワ。

【自然と住民】国土は南に高く険しい山地,中央部は丘陵・台地で,北は平野であるが,大部分が平坦地といってよく,ポーランドという名も,平原・耕地をさす Po, Pole からきている。北部はチェコスロヴァキアとの国境を走るズデーテン山脈カルパート山脈カルパチア山脈)がある。カルパート山脈中のタトラ山地はとくに高く,2,500mにも達する。その北にシュレジェンシュロンスク)丘陵などの台地帯があり,鉄・亜鉛・石炭などの地下資源が豊かである。さらにその北に国土の70%を占める平野部が開けるが,氷河時代の粘土などにおおわれ,肥沃とはいえない。北部の北からバルト海沿岸にかけてのマズリア(マズリ)・ポメラニアポモジェ)には湖や湿原が多く,泥炭を産する。南部山地は,東ドイツとの国境をなすオーデル川(オードラ川)とその支流であるニサ川ナイセ川)・ワルテ川,あるいは国土のほぼ中央を北に流れるヴィスワ川(ヴイスラ川・ヴァイクセル川)の源流になっている。気候は西の海洋性気候と東の大陸性気候の漸移点にあたり,不安定で,夏を除いては寒く,冬には川が凍る。四季に加えて早春・初冬があり,六季が規則正しく変化する。この気候に適したモミ・ブナ・カラマツが豊かである。住民はほとんどがポーランド人である。ポーランド人は森林を切り開いて農耕を営んできた民族で,ポーランド語はスラヴ西方群に属する。そのため,ポーランド人はチェコ人などとともに西スラヴ人とされる。中世以降,西ヨーロッパ文化にふれ,その影響が強い。とくに宗教では,住民の95%がローマ=カトリック教徒である。この関係から,ポーランドにはドイツ人の来住者も多く,ユダヤ人・ウクライナ人などもいた。しかし,第二次世界大戦中にユダヤ人の多くが殺害され,ドイツ人などは引き上げ,現在は単一民族国家に近い。

ピアスト王朝】スラブ人はカルパート(カルパティア)山脈を越えて,前2世紀ごろ東ヨーロッパに入り,民族移動期ののち,それぞれの民族に分かれて定着していった。ポーランドについては考古学的資料しかないので不明な点が多いが,6〜7世紀に部族ごとに定住していったと考えられる。そのうちのポラニ族を中心に部族的統一がすすみ,史料上初めて歴史に姿をみせたのは,グニエズノに中心をおいた大ポーランドピアスト王朝の始祖ミエシュコ1世(在位963?〜992)の時代である。この時代,すでにキリスト教がオーデル(オードラ)川以東に入っており,ミエシュコは966年,キリスト教に改宗して教会の保護を受け,神聖ローマ皇帝オットー1世の東進を,国土の一部を封土として差し出すことで防ごうとした。彼はキエフ公国と争いながら,西スラヴ人の統合をすすめていった。彼の子ボレスワフ1世(在位992〜1025)はシュロンスク(シュレジエン)やポモージュ(ポンメルン)など,西スラヴ人の地を収め,キエフ公国の内紛にも干渉し,皇帝ハインリッヒ2世とも争って,ローマ教皇から王号を授けられ,強国の一つに数えられるにいたった。彼の死後,子供たちのあいだで争いがおこり,封建貴族の反抗も始まった。カジミエシュ1世やボレスワフ2世の時代は封建勢力に対して王権が後退した時期で,貴族や騎士が勢力をもった時代である。ボレスワフ3世(在位1102〜38)はポモージュを奪回し,ドイツ人から国土を防衛したが,相続争いを避ける目的から,遺言状で国土を4公領に分けて,息子に分与した。しかし,大公国としたクラクフ(クラカウ)を中心とする小ポーランドの支配をめぐって,13世紀まで争いがつづいた。この間,ドイツ人の東方植民がすすみ,都市生活・商業といった新しい要素が生まれ,反面,ドイツに対するポーランド人の民族闘争が強くなった。ことにドイツ騎士団はバルト海に沿った地域に勢力を占めるにいたったが,この騎士団を招いて,北スラヴ人であるプロイセン人を討たせたのはマゾヴィアコンラート公であった。一時,ボヘミア王の支配をへて,ピアスト王家の血を引くウワディスワフ1世(在位1296〜1300,1306〜33)が大・小ポーランドを統一し,シュロンスクポモージュはボヘミアに奪われはしたが,1320年王位についた。その子カジミエシュ3世(在位1333〜70)はポーランドで大王と呼ばれる唯一の王で,ドイツ騎士団と1343年カリシュの和を結び,キエフ公国の解体をとらえてリトアニアを得,法を整備し,行政を統一した。クラクフ大学(1364)の基礎は彼の手で築かれた。しかし,大王でピアスト王朝は絶えた。

【ヤゲロー王朝】血縁によって,ハンガリー王ラヨシュ(ポーランド王としてはルドヴィク1世)があとを継ぎ,娘の継承権を確保するために,コシュイツェのセイム(国会)で,貴族の免租・王の選挙などを特許状として出した。このため,王の末娘ヤドヴィガが女王に選出され,リトアニア公ヤゲロー(ヤギェヴォ)を夫とした。これよりヤゲロー王朝が始まる。ウワディスワフ2世(在位1386〜1434)となったヤゲローは1385年のクレボ法令でポーランドとリトアニアが同君連合であることを確認し,1410年7月両国の軍はグリュンヴァルトの戦いタンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団を破り,第1次トルン条約を結んだ。リトアニア貴族の要求に,ホロドの協約(1413)で,リトアニア貴族にもポーランド貴族と同様の特権を認めた。その後の王たちはドナウ川流域でドイツ系のハプスブルク王朝と対立する一方,トルコとも対立した。ウワディスワフ3世(在位1434〜44)はハンガリー王を兼ねて,対トルコ十字軍をおこしたが,ヴァルナで戦死した。カジミエシュ4世(在位1447〜92)はドイツ騎士団と長期の戦いの末,第2次トルン条約を結び,東ポメラニアなどを得て,バルト海への出口を奪回した。彼はまた,マグナート大貴族に従属しながらも,反目している戦士身分であるシュラフタに1454年のニシャヴァで特許状を発して特権を認め,それはオルブラハト王によって拡大された。ポーランドはこのころ,オスマン=トルコ・神聖ローマ帝国・新興のモスクワ大公国・ドイツ騎士団と対抗しなければならなかったが,豊かな穀物の輸出で,国は富裕であった。しかし,地方議会(セイミク)に勢力をもっていたシュラフタが,15世紀末には国会(セイム)にも勢力を伸ばし,マグナートとともに王権を制約する行動に出たので,ポーランドの統一化は阻害された。ジグムント1世ジギスムント,在位1506〜48)がミラ公女と結婚したことで,イタリア=ルネサンス文化が,クラクフ大学を中心に12学芸で花を咲かせた。クラクフ大学コペルニクス地動説を発表したのもこのころである。次のジグムント2世(在位1548〜72)のとき,ロシアの攻撃に備えて,ポーランドとリトアニアの連合強化がルブリン国会(1569)で実現した。また,宗教改革はカルヴァン主義の普及となり,シュラフタのあいだにひろまったが,やがてカトリック勢力の巻き返しがなった。ジグムント2世の死去でヤゲロー王朝が絶えた。

【王国の後退】1574年フランス出身のアンリ=ド=ヴァロアが即位し,選挙王制を確約したが,フランス王になるために引き上げた。その後,選出されたトランシルヴァニア公ステファン=バトリ(在位1575〜86)は,グダニスクの反乱を抑え,リヴォニア戦争に勝利を得て,モスクワ大公国とも争った。バトリはジェスイット派学校ヴィルノ大学(1579)を設立し,ユダヤ人を保護した。バトリののち,スウェーデン出身のジグムント3世(在位1587〜1632)がハプスブルグ派を抑えて王位につき,ザモイスキーの助力を得て,首都をクラクフからワルシャワに移した。国内ではカトリック政策と王権の拡大に対する反乱がおこった。王はルター派のカール9世に奪われたスウェーデン王位を奪い返すために,スウェーデンと戦い(1601〜11,1617〜29),モスクワ大公国の内乱に干渉し,偽ジミトリーの側についてロシアと戦った(1609〜18)。が,ロシアではミハイル=ロマノフが即位し,ポーランドは敗れた。ウワディスワフ4世(在位1632〜48)はシュラフタと妥協し,宗教的対立を緩和しながら,1634年にはロマノス王朝を認め,1636年スウェーデンとも和解した。ヤン2世(在位1648〜68)のとき,ボグダン=フメルニツキが指導するコサックの反乱がおこり,また,スウェーデン王カール10世に侵略された。これらの結果,ポーランドはリヴォニア・ウクライナ・スモレンスクを失い,プロイセンに対する宗主権を放棄して,その独立を認めた。国内的には,マグナートの勢力が増し,1654年に認められた,国会での一人でも議案を否決できる自由拒否権は,ポーランドをのちに,亡国にまで導くことになった。シュラフタに選出されたヴィシニオディエツキはトルコに敗れ,1672年ウクライナを失った。しかし,ヤン=ソビエスキホティンでトルコ軍を破り,王に選出されてヤン3世(在位1674〜96)となり,王権を強化する法改正やモルタヴィア遠征には失敗したが,ウィーン包囲のトルコ軍を退けるのには功があった(1683)。トルコの中欧進出はこれで失敗したといってもよい。

北方戦争から王国分割まで】自由拒否権はポーランドに大きな混乱をもたらしていた。文化的には,西ヨーロッパのバロック様式が入って,サルマティズムとなって花開いたが,ヤン3世の死後王位が決まらず,政治的には荒廃し,チャルトリスキ家とポトツキ家はそれぞれ,外国の勢力に援助を求めたので,スウェーデンのカール12世とロシアのピョートル大帝がバルト海の覇権を争う北方戦争をおこすと,これにまきこまれて戦場となった。ピョートルの推すザクセン侯アウグスト2世(在位1697〜1733)に対して,カール12世はスタニスワフ=レシチンスキを支持し,貴族間の内乱(1715〜19)となり,アウグスト2世の死後は,ロシア・オーストリアが推すザクセン侯アウグスト3世(1733〜63)とルイ15世の義父にあたるスタニスワフ=レシチンスキ支持のフランスのあいだで,内乱をも含んだポーランド継承戦争(1733〜35)がおこり,前者が勝利を収めた。こののちも,マグナート勢力を拡大しようとするチャルトリスキ派と王権強化をねらうポトツキ派の争いはつづき,カトリック教徒の反ロシア反乱がおこったほどである。この情勢に,ポーランド分割の構想をもっていたプロイセンのフリードリヒ2世(大王)はロシアのエカテリナ2世を説き,オーストリアのマリア=テレジアを加えて,1772年第1次ポーランド分割を強行し,ポーランドは国土の約3分の1を失い,ロシアはドニエプル・ドヴィナ河畔まで領土を拡大して,最大の利益者となった。ポーランド分割はポーランド人に民族的自覚をもたせた。文学・美術は発達し,啓蒙的改革をすすめたスタニスワフ2世(在位1764〜95)のもとで,教育改革が行われ,ヨーロッパ最初の教育委員会が設置された。1788年には進歩的な四年議会が召集され,それは1791年5月自由拒否権や選挙王制を否定した新憲法を制定し,シュラフタの特権も制限された。この改革に,貴族の特権を保持しようとする連盟がタルゴヴィツァで結ばれ,ロシアに支援を求めた。エカテリナは軍を送り,フリードリヒ大王とともに,1793年第2次ポーランド分割が行われた。ポーランド人はクラクフ反乱でこれに抗議し,コシチュシュコ(コシューシコ)の指揮する農民軍は一時,ワルシャワを占領したほどであったが,1795年にはマチェヨヴィツェで敗北して終わった。フランス革命に各国が追われてるあいだ,1795年ロシア・オーストリア・プロイセンのあいだで第3次ポーランド分割が行われ,ポーランドは姿を消した。ポーランド人の反抗は国外に移され,1797年にはドンブロフスキのもとで,ミラノにおいてポーランド軍団が結成され,ナポレオン軍に合流して,1807年のティルジット条約ワルシャワ大公国を許されたが,ナポレオンの敗北で消滅し,ウィーン会議によって,ロシア皇帝を王とするポーランド王国ができた。ウィーン会議がつくったという意味で,これを会議王国と呼ぶ。

【ポーランド人の反抗】ロシア皇帝アレクサンドル1世の自由主義にかけた期待は,まもなく裏切られた。ロシア皇帝が与えた憲法を,皇帝はしばしば破った。このため,ポーランドの地下組織が活発になり,1825年ニコライ1世が即位すると,その傾向はいっそう激しくなった。1830年士官学校生徒を先頭に,ワルシャワで蜂起がおこり,革命政府が樹立されたが,1831年9月に革命は鎮圧された。その結果,自治権は縮小され,憲法は廃止された。ウィーン会議でプロイセンに与えられていたポズナニ(ポーゼン)ではドイツ化政策が強行され,ポーランド人にもドイツ語が強要された。亡命したり,国外にいるポーランド人のあいだで,祖国に寄せる愛国的情熱がおこり,同情をひいた。ショパンなどもその一人である。ウィーン会議によってオーストリアに合併されたガリツィアで,1846年クラクフを中心にした農民反乱がおこった。オーストリアは農民とシュラフタを離反させて,この反乱を鎮圧した。ポーランド人はさらに,1848年の三月革命期に,詩人ミツキエヴィッチが軍隊を指導してオーストリアと戦い,ポズナニではミエロスワフスキの指揮する反乱をおこした。パリに亡命していたチャルトリスキは各国の知識人を説いて,ポーランド援助を訴えた。しかし,それらはことごとく失敗に終わった。たび重なる失敗は,戦術を一揆主義から妥協主義へと傾かせ,急進派(赤党)と穏和派(白党)の対立となったが,1863年におこったポーランド反乱では,両派は一致して戦った。しかし,ヨーロッパ知識人のあいだで問題になったポーランドも,政府を動かすにはいたらず,ポーランド人の期待にはそえなかった。反乱は失敗し,苛酷な処刑が待ち受けていた。実証主義の普及がこの経験に加わり,ナショナリズムの方向はマニュファクチュアを発達させたり,文化の面でポーランド的伝統を守るものに変わってきた。社会主義勢力の台頭もこのころで,ポーランド社会党は1892年に設立されている。それが1905年の第一次ロシア革命への参加にもなってきた。

【独立の回復】第一次世界大戦が開始されると,ロシア・ドイツ・オーストリアともに,ポーランド人の協力を必要としたので,ポーランドの独立を約束した。大戦の結果,ポーランド分割に参加した3国は敗戦国になった。1918年11月ポーランドは共和国としての独立を宣言し,ヴェルサイユ条約は民族自決の原則によって,これを承認した。独立したものの,国土は分割前の半分にも達せず,多くの異民族を含むものであった。国境紛争は独立後の宿命になった。東部国境はカーゾン線が設けられたが,これに不満なポーランドは,1920年4月からのソヴィエト−ポーランド戦争をおこし,1921年3月のリガ条約で要求を一部満たした。1920年7月にはチェコスロヴァキアやドイツとの国境が決定され,リトアニアとの紛争は1923年3月に決着をみた。大戦後のポーランドはインフレや民族問題に苦しみ,諸党派間の抗争も絶えなかったが,ピウスツキは独裁的権力を握り,農地改革を行い,シュロンスクの炭田・カルパティアの油を開発して,工業を興した。外交面では1921年2月フランスと同盟し,つづいて,フランスが後援した小協商に加盟して,ドイツやハンガリーに備えた。しかし,ベック外相はこの方針を変更し,1933年にソ連と不可侵条約を結ぶ一方,ナチス=ドイツにも近づき,ズデーテン問題に際しては,チェコスロヴァキアからツェシェインテッシェン)を譲らせたが,1939年3月には,ドイツからポーランド回廊を要求され,ドイツ軍の攻撃を受けて,第二次世界大戦が開始された。

【人民共和国の成立】1939年9月ドイツが侵入すると,ソ連も東方から侵入し,ポーランドは両国間で分割され,亡命政府の国内軍と左翼系パルチザンに分かれて抵抗した。親西欧的な亡命政府はソ連との関係が悪く,1943年4月にスモレンスク近郊で,国内軍兵士約1万人の虐殺死体がみつかり,亡命政府がこれをソ連の責任としたカティンの森事件以来,決定的となった。1944年7月,親ソ派の「国民解放委員会」が成立し,亡命政府のミコワイチュクの妥協交渉も成功せず,ソ連軍によってポーランドは占領された。ヤルタ会談カーゾン線をもって東部国境とし,ポツダム会談はオーデル=ナイセ線をもって暫定的な西部国境にすることを決めた。第二次世界大戦後のポーランドは冷戦のなかで国際協調からソ連よりに変化し,再建と工業化が3年計画,ついで6年計画ですすめられる一方,1948年にはソ連の方針を受け入れ,労働者党が社会党を吸収してポーランド統一労働者党が成立した。金融・工業・鉱業の国有化,地主土地の没収と農民への土地分配が行われた。亡命したミコワイチュクに代わって,ゴムウカが指導者になったが,ユーゴスラヴィアのコミンフォルムからの追放の影響を受け,ゴムウカも党書記長を解任され,逮捕された。人民民主主義はポーランド独自のものではなく,ソヴィエト体制そのものであるとされ,1952年7月人民共和国憲法が制定された。教会との関係も悪化したが,1950年以後改良されてきた。

【最近の問題】非スターリン化の波が社会主義圏でおこると,1956年ポーランドではボズナニ暴動がおこり,労働者の待遇改善が要求された。これを機に,1956年10月ゴムウカが復帰して,社会主義の多様なあり方を説いたが,結局,ソ連との同盟やソ連軍駐留の意義を認め,1965年には,ワルシャワ条約機構の弱体化を補う意味で,ソ連との同盟を更新した。ポーランドがチェコ事件に介入したことで,ゴムウカの人気は低下し,1970年12月西ドイツのブラント首相とのあいだで,オーデル=ナイセ線を国境とすることを事実上,認めさせ,国交を正常化させたことも人気回復の決定的手段とはならず,賃金問題から,グダニスクシュチェチンコなどで,労働者の暴動がおこった。ゴムウカは退陣してギエレクが登場した。しかし,自由化の波は1980年代に入っても衰えず,自由労働組合「連帯」はワレサ議長を中心に,1980年7月政府の政策に対決し,カトリック教会をもまきこんで,1981年3月には,ソ連の警告のなかでの大ストライキがおこり,ヤルゼルスキの軍政による弾圧をひきおこしている。

【文化】チェコスロヴァキアと並んで,西ヨーロッパ文化の影響を早くから受けたポーランドは,東ヨーロッパのなかでも文化の高い国である。16世紀のコハノフスキは叙情詩をもって知られ,その伝統は18〜19世紀にはミツキエヴィッチ・スウォワツキクラシニスキらに受け継がれ,19世紀後半には『クオ=ヴァディス』の作家シェンキェヴィッチがでてくる。『農民』の作家レイモンドやウィスピアニスキらは第一次世界大戦前後に活躍した。第二次世界大戦後は社会主義文学者が台頭している。マズルカポロネーズを民族旋律にもつポーランドは音楽民族でもある。1765年ワルシャワに国立劇場が設立されたことが,西欧音楽と結びついた民族音楽を発展させ,コルベルグオギニスキを輩出させ,ショパンを生んだ。コペルニクス地動説は革命的で世界観の転換をもたらせた。近代物理学ではキュリー夫人母子が著名である。エスペラント語を考案したザメンホフもポーランド生まれである。

【政治と経済】1952年に制定された憲法では一院制の国会(セイム)が置かれ,議員の任期は4年である(現在は軍事評議会が担当している)。人民評議会は地域的に置かれている。ワルシャワ条約機構・経済相互援助会議(コメコン)に加盟している。中欧に非武装地帯を設置する案を,1957年当時の外相であったパラツキが提出し,一般にパラツキ案と呼ばれている。ポーランドは地下資源に恵まれ,石炭や天然ガスが豊富である。その上に立って,第二次世界大戦後,クラクフ近郊のノワ=フータの製鋼所などのシュロンスク・下シュロンスク・ウロツワフ,さらにワルシャワ近郊などの工業地帯が開かれ,自動車・電気・アルミニウム・繊維工業が発達し,グダニスク・シュチェチンでは造船・冶金が盛んである。農業では,共同農場化はあまりすすまず,個人農の協力するグループを中心にしている。ボズナニ地方は小麦,そのほかの地方でライ麦・カラス麦・ジャガイモ・亜麻・甜菜などがつくられている。通貸単位はズオチである。

〔参考文献〕矢田俊隆編『東欧史』山川出版社

中山昭吉・中山洋子『東欧圏の露頭ポーランド』古今書院

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