●ホラズム
アジア トルコ共和国 AD
中央アジア,アラル海の南側,アム川下流域の地域名。中国では,唐代に貨利習弥伽・火尋,元代に花剌子模と記された。アム川が貫流する肥沃な土地で古代から文明が栄えた。その古代史について文献に語られることは少ないが,アケメネス朝のキュロス王のときにその版図に入り,ヘロドトスはダレイオス1世が定めた16番目の行政区のなかにコラスミオイ人の名をあげており,クセルクセス王のギリシア遠征軍のなかにもコラスミオイ人の名が見える。前5世紀末か前4世紀初頭に独立したとみられ,アレクサンドロス王が中央アジアに進軍した際,前328年ホラズム王のファラスマンが使者を遣し,マケドニア軍との同盟を申し入れている。ホラズムの古代文明はソ連の考古学調査により解明されつつある。とくに,1937年以来の S.P.トルストーフの発掘調査は大きな成果をあげた。コイ=クリルガン=カラは前3〜後1世紀間の特異な円形建造物の遺跡として知られ,トプラク=カラは1〜4世紀間の代表的な遺跡で,当時ホラズム全域に君臨したとみられるアフリグ王朝の王宮趾である。遺跡や出土貨幣にはヘレニズムの影響が認められるが,政治的にはアフリグ王朝のもとにアラブの征服にいたるまで独立を保ち,灌漑組織もこの時代に整備された。712年,ホラズムはウマイヤ朝のクタイバ将軍によって征服され,その混乱期に灌漑組織の相当部分が荒廃した。このころまで,ホラズムの中心地はアム川右岸のキャトであったが,10世紀ごろから左岸のウルゲンチ(グルガーンジュ)が交易によって栄え,以後の政治的中心地となっていった。10世紀に独立政権が樹立されたが,11世紀にはガズニ朝,セルジューク朝の支配を受け,11世紀後半,ファーリズム=シャー朝(ホラズム帝国)のもとに再び独立した。アラブの征服後,ホラズムはイスラーム文化の一中心地となり,イブン=ムサ=アル=ホレズミー(8〜9世紀の人)・アル=ビルーニー(11〜12世紀の人)などの大学者を輩出している。灌漑組織がもっともよく整備されたのもこの時代で,現在の砂漠の奥地に達する広大な農耕地が形成されていた。この繁栄の基礎のもとにファーリズム=シャー朝は発展し,13世紀初頭,ムハンマッド王はその版図を西トルキスタン,イラン高原の全域に拡大したが,チンギス=ハンの遠征軍の襲来によってたちまち崩壊し,ホラズムの地はキプチャク=ハン国・チャガタイ=ハン国によって分割統治された。のちにティムールがその全域を支配し,16世紀初頭,ウズベク族が南下して,占拠し,1512年,ホラズムの地にヒヴァ=ハン国が成立した。この時代,ホラズムは,チンギス=ハン・ティムールの破壊から復興し,中南部の灌漑網が無秩序に発達したため,アム川の水量が減少し,北部の灌漑網が荒廃した。このため,17世紀初頭王朝の政治の中心地は,ウルゲンチからヒヴァに移された。ついで,アブル=ガージー(ヒヴァ=ハン国13代君王)はウルゲンチの住民を南部に移住させ,新ウルゲンチが創建された。この結果,古代から栄えた灌漑地帯は放棄され,砂漠化した。19世紀にはロシアが南下し,1867年,カウフマン将軍が攻略した。以後,ロシアの領土となり,1920年,ホラズム共和国が成立し,1924年,ウズベク共和国に編入され,ホラズム州となって今日にいたっている。州都は,(新)ウルゲンチに置かれ,近代技術により灌漑組織の整備が進められている。〔参考文献〕S.P.トルストーフ「古代ホレズム」(加藤九祚訳『西域の秘宝を求めて』)1969,新時代社