50音順    検 索

●ホームステッド法 ホームステッドほう

北アメリカ アメリカ合衆国 AD1862 

 ホームステッドとは家屋敷を意味するが,農家とその周辺の耕地などを含めた土地をさす場合が多い。したがってこの法は,ふつう自営農地法と訳される。1862年5月20日成立。21歳以上の入植者に対し,測量済みの公有地を交付する方法を定めた。希望者は次のいずれかの方法を選ぶことができる。[1]5年間定住し,26〜34ドルの手数料を払い160エーカー(約65万平方m)の土地を無料で給付される。[2]6カ月居住し,1エーカー(約4,050平方m)につき1.25ドルを支払い土地を購入する。いずれの場合も,この法にもとづいて入手した土地は負債支払いのための仮差し押さえの対象にならない,とされた。フロンティアの開拓がアメリカ合衆国のほぼ中央にまで達していたこと,および南北戦争がおこった結果,公有地の無料公布に反対していた南部諸州が脱退したことがあって,初めてこのような法は成立が可能になったのである。西部の農民は安い土地の給付を望んでいたが,18世紀の終わりごろ,彼らの要求は合衆国議会への請願となって現れた。彼らの要求は1840年代からさらに強くなり,自由土地党がそれを代弁した。1848年同党は,開拓者が〈荒野を切り開くために支払う費用を償う〉ものとして,土地の無料の給付を主張した。4年後同党は,土地の保有は万人のもつ「自然権」であるという理論を根拠に,同年の大統領選挙に向けての綱領のなかで土地の無料給付を掲げた。自由土地分与法が合衆国議会下院を通過したが,上院では不成立に終わった。このような政策に対しては,次の3点の反対論が出された。[1]西部に自営農が増えれば,そこに奴隷制反対の勢力が培われる。[2]フロンティアの発展は既成の地域の経済的基盤を弱体化する。[3]外国からの移民が増加する。第1の理由は南部地域の立場,第2の理由は東部地域の立場,そして第3の理由は反外国人グループの立場を表明したものであった。1860年自営農地法案が両院を通過したが,ブキャナン大統領はそれへの署名を拒否した。大統領の拒否をくつがえす試みは,わずかの差で不成功に終わった。しかし1862年同法案は再び議会を通過し,リンカーン大統領はそれに署名した。ここに長年西部農民の夢であった土地の無料給付が実現したのであった。19世紀末までに約50万家族がこの法の恩恵を受けた。ホームステッド法は,西部開拓とほとんど同意語となり,開拓者はホームステッダーと呼ばれた。しかし,この法を悪用し広大な土地を手に入れた土地投機業者や牧畜業者がいたことも忘れてはならない。彼らは真実の自営農が入手したよりはるかに広い土地を,不正に入手したのであった。