●法相宗 ほっそうしゅう
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南都六宗の一つであるとともに,天台・真言両宗成立後に汎称された,日本八宗中の一つでもある。日本法相宗が祖宗とする中国法相宗は中国十三宗の一つである。この宗名は諸法の性と相との関係を究明することを経旨とする解深密経(げじんみつきょう)にもとづくものであるが,諸法唯識の理を明らかにすることを論旨とする成唯識論(じょうゆいしきろん)によって唯識宗とも称される。さらに,唐の大成者である慈恩大師窺基(きき)に因んで慈恩宗(じおんしゅう)とも称する。ほかになお応理円実宗(おうりえんじつしゅう)・有相宗(うそうしゅう)・相宗(そうしゅう)などの異名をもっても呼ばれる。【日本への伝来関係】[1]入竺した唐の玄奘がインドで名づけられていた瑜伽宗(ゆがしゅう)を中国へ伝えて法相唯識の宗旨を広め,弟子の窺基がこれを大成し,法相宗・慈恩宗の宗名が初めて現れる。[2]日本への伝来は4伝を数える。653年(白雉4)に元興寺の道昭が入唐して玄奘に師事し,窺基とも往き来して660年(斉明6)に帰朝して本宗を弘通したのが第1伝。この伝を南寺伝とも元興寺伝ともいう。658年(斉明4)に入唐した智通・智達も玄奘・窺基に受学して帰朝し本宗を広めたのが第2伝。703年(大宝3)に智鳳・智鸞・智雄が入唐のうえ,窺基の弟子智周に師事して伝えたものが第3伝。716年(霊亀2)に渡唐して735年(天平7)に帰朝したゲンホウ※注1※が伝えた智周伝授の本宗を,興福寺に広めたのが北寺伝とも興福寺伝とも呼ばれ,正伝とみなされた第4伝である。4次の伝持によって,法相教学は宣揚の度を深めたがやがて,南北両寺系にその宗系が両立統合し,両系相競ってそれぞれ多くの宗学僧を輩出し,多くの宗学書が生まれ,奈良時代の中後半期には南都六宗中で最も宗勢を高めた。本宗と並んで南都六宗の中軸とみなされた三論宗の宗勢が振るわず,政府はたびたび本宗に並びえるまでに,三論宗の宗勢回復を策令したことは,両宗のうち,法相宗につく修学僧が多かった趨勢にもとづいたもので,本宗の宗勢が大であったことを裏づけている。また宗勢の動向と並んで,教学研鑽の度合いを示すものとして,法華一乗を主唱した最澄と数年に及んで三乗真実・一乗方便説を主張して論争した会津慧日寺の徳一(徳溢とも得一とも)の法相教学がある。北寺系の本拠興福寺は,藤原氏の氏寺である関係上,平安時代に藤原氏の族勢の発展とともに法相宗は興福寺の仏教として伝えられ,藤原氏出身の法相宗寺僧が多く輩出した。平安時代末,鎌倉時代初期の貞慶(じょうけい)もその一人で,律宗などの兼学の法相学匠として,法相唯識学を中心に,南都仏教の復興に努め,『唯識同学鈔』『法相初心略要』『愚迷発心集』などを著し,また瑜伽唯識教学の祖弥勅菩薩信仰の鼓吹を宣揚した。
〔参考文献〕富貴原章信『日本唯識思想史』1944,大東出版社
富貴原章信『日本中世唯識仏教史』1975,大東出版社
田村圓澄「三論・法相伝来考」(『史学論集 対外関係と政治文化』1)1974,吉川弘文館
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