●北極 ほっきょく
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北半球の森林地帯以北に広がるツンドラ地帯を中心とした北極と呼ばれる地域は,地球の17%を占め,ソ連・米国(アラスカ)・デンマーク(グリーンランド)・ノルウェー・フィンランド・スウェーデン・カナダとアイスランドにわたって分布する。英語で Arctic と呼ばれる北極の名称は,Arctos(熊),すなわち Ursae Major(北極七星,またはこぐま座の北極星)にちなんで,高緯度地帯をいう。北緯66度33分の北極圏は天文学的な区分であり,この地点では冬至に太陽は地平線より上へ昇らず,夏至に太陽は地平線より沈まないところで,自然環境とあまり関係のない区画といえる。自然環境の立場としては,ツンドラの南限と森林の北限とほぼ合致する最暖月間平均温度10℃等温線をもって区切る方法は最も一般的である。この基準によって区切られる地域は北極地帯,あるいは極北と呼ばれる。または,それぞれの国の事情によって緯度をもって行政北極地帯という区画法もある。ソ連では北緯62度以北,ノルウェーでは65度以北,カナダでは60度以北の地域を特別行政区として設定している。北極圏内に居住するのは,おもに北米大陸に分布するエスキモー族と北方インディアンの諸族や,アジア大陸に分布するツングース・サモイエードなどの諸族,ヨーロッパに分布するラップなどの民族である。広大な北極地域では自然環境は一様ではなく,また人間はそれぞれの環境に応じて違った生活を営んできた。【自然環境】極北,あるいは北極地帯は北極圏と大きくずれ,南アラスカでは,北緯60度まで南下する一方,東部カナダでは北緯70度までの地域は欝蒼たる北方針葉樹林(シベリアではタイガという)が広がっている。ツンドラ地帯では,樹木は成長せず,カンバ・ホッキョクヤナギ・ハンノキなどの灌木のほかに,地衣類や禾本科などの植物が自生する。植物が少ない理由は厳寒の環境条件のためでもあるが,400種もの顕花植物が自生している事実から考えると,寒さだけが植物の進出を妨げているのではないことが明らかである。極北の氷河が退化し,地面が露呈したのはわずか1万年前のことであり,さまざまな種の植物がこの環境に適応するのに,あまりにも短い時間である。それに,植物が少ないために,腐植による土壌生成は非常に遅く,植物が定着する条件もまだ完成していない。永久凍土の分布は年間平均温度 0℃以下の地域に形成され,ツンドラ地帯とほぼ重なる。場所によっては深さが1,000m以上もある。永久凍土の表面は夏には,10〜30cmまで解ける活層があり,下の解けない凍土は不透水層をなしているので,雪や氷の融水のために,いたるところにおびただしい数の池や湖などの湿地が形成され,移動に困難をきたし,蚊などの昆虫が大量に発生する条件をつくっている。強風が始終吹いているために樹木が成長しないもう一種類のツンドラは,アラスカ半島からアリューシャン列島にかけて見られる。これは,夏の最高温度によって樹木の成長が抑制される正真のツンドラ(温度性ツンドラ)と区別する意味で,風性ツンドラと呼ぶことができる。
【文化】一年中極北のツンドラ地帯で生活し,季節的に森林地帯に退却しない民族はエスキモーだけであり,北方樹林帯に分布するそれ以外の北方民族,たとえば極北のインディアンの諸族,シベリアのツングース系やサモエド系などの諸民族,スカンディナビアのラップ族は季節的に,とくに冬期には,木のあるところで過ごす。ゆえに,極北のツンドラ地帯に完全に適応しているのは,チュクチー半島からグリーンランドまで分布するエスキモー族だけである。アリューシャン列島のアリュート族が住んでいるのは,年間平均温度は高い風性ツンドラであり,正真正銘の極北適応型民族ではない。人類は北米大陸で発生しなかった。シベリアからベーリング海峡を渡って移動してきた移住集団は新大陸の最初の住民となった。エスキモーが定着した約4,000〜5,000年前のことであるとされているが,それ以前の文化と人間集団はエスキモーの民族と文化の形成に直接に関与しなかったようである。人間はいつ北米大陸へ渡ったのかについて,いくつかの説が対立している。氷河期に伴って海水面が下がり,その結果として現在のベーリング海峡が陸化して,ベーリンジアと呼ばれる陸地が形成された。その陸橋を約1万2,000〜1万5,000年前に人類が渡ってきたことについて異論はないが,それよりも古い時代,つまり今から3万年以上前に人類が同じルートをたどって北米大陸に入ったと主張する研究者もいる。この説はまだ十分に実証されておらず,万人が納得できるにはいたっていないが,考古学調査が進むにつれて,3万年前の初期人類到来説は立証される可能性が残されている。いずれにしても,1万5,000年前に,あるいはそれよりも古い時代に人類は波状的に,何回も渡ってきたことは確かであるが,どの移住集団が新大陸に住む原住民のどのグループ(部族)と関係しているかは,現段階においては見当がつかない。新大陸のインディアンには,10以上の語族が認められていることからしても,いくつもの異なった移住集団があったということは明らかである。ただし,エスキモーの民族と文化はその古い移住集団のいずれにも関係しているとは想定されておらず,エスキモーが約4,000〜5,000年前に北東アジアから到来して,チュクチー半島からグリーンランドのあいだに広がるツンドラ地帯において独自の文化を築いたと考えられている。現代のエスキモー文化には強い斉一性が認められるが,物質文化の面では,大陸カナダの西端に流れるマッケンジー川を境に,アラスカとチュクチー半島の東部を中心とした西部エスキモー文化と,カナダとグリーンランドの東部エスキモー文化に分けられる。一方,東部エスキモーが話すことばはアラスカのノートン湾まで,西部エスキモーのことばはノートン湾以南の地域に限られているようであり,言語による区分と,文化による区分が一致しないことは,エスキモー民族の歴史の複雑さと集団移動の激しさを現しているようである。先史時代においても,西部エスキモーと東部エスキモーはそれそれ独自の文化発展過程をへているが,この事実はエスキモー文化に二つの起源,つまりそれぞれ西部と東部ではエスキモー文化が独自に発生したことを意味するのか,あるいはアラスカに由来した原エスキモーが東部へ伝播する過程において,独特のものに変化したことを意味するのかに関しては,今後の研究成果が待たれる。東西約8,000km,南北約3,000kmに広がって分布しているエスキモーは全域にわたって同一の生活様式を営んでいることはなく,細分すれば場所と時代によって,何百という文化を設定することができる。しかし,巨視的にみればいくつかの包括的な文化圏を設定することは可能である。[1]西南アラスカの漁撈とセイウチ・トド・アザラシ猟を中心とした生活圏では,2〜3家族から10数家族からなるバンドと呼ばれる集団が1年の大半を単独に行動して,冬の集合地で発達した儀礼を伴う祭りを催す。[2]ベーリング海峡を往来して北極海へ出入りするセミクジラなどのヒゲクジラ類に依存した北アラスカのエスキモーは半定住の集落をもち,捕鯨者同士が招き合う“使者祭”が行われるカリギという集会場が集落の中心となっていた。[3]おもにシロイルカを捕るマッケンジー川の河口付近に住むエスキモーはアラスカのエスキモーにくらべて,儀礼生活はさほど顕著ではなく,東部のエスキモーに似ている。[4]アラスカのエスキモーのように,カナダのエスキモーを地域グループに分化することは困難である。というのは,カナダでは,東西の分布圏は広く,南はハドソン湾やラブラドール地域から,北緯80度付近まで分散しているので,それぞれの地域に適した生業活動を行い,生活様式も相違している。しかし,あえてまとめてみるとすれば,晩冬から春にかけての海氷の上からのアザラシ猟・夏のカリブー猟・秋のサケ漁というパターンが認められよう。ところによっては,捕鯨が行われていたが,北アラスカ=エスキモーのように主要生業活動ではなかったようである。内陸に住み,カリブー(北米産トナカイ)を主要の食料源としている,いわゆる内陸エスキモーは西洋人が到来してからの接触時代に出現した,沿岸エスキモーから派生した変形文化であり,きわめて新しい現象であると考えられる。
〔住居〕全域にわたって,冬のあいだ(11〜2月)は,エスキモーは地面が凍っていない夏に掘った堅穴式住居に住んでいた。鯨の骨や流木の骨組に獣皮を被せて,その上に芝土と雪を積んだ竪穴住居は保温性が優れ,北方民族全体にみられる住居形式である。浅く凹めた石にアザラシの油を燃料とする石ランプは暖房器具でもあり,照明器具でもあった。居住地周辺の食料が採りつくされるころの2月から3月にかけて,太陽が再び現れると,移動生活に適した雪の家やテントに移ることが多かった。半日もあればつくれる雪の家は10日ぐらいのあいだ,暖かく快適な住まいであるが,石ランプの熱や住んでいる人のいきれで壁がしだいに解けて水に変わると,もはや生活に適したものではなくなるので,次の設営地へ移動して,新たに雪の家をつくる。この形式の家はもともと東部エスキモー独特のものであり,アラスカなどの西部極北圏へ伝播したのは,19世紀に西洋人によってもち込まれて以降のことである。テントは,流木などの枠の上にカリブーやアザラシの皮を張ったもので,なかに石囲い炉に火をたいて暖をとったり,簡単な料理をしたようである。〔衣服〕エスキモーの服装はおもに防寒性の高いカリブーの毛皮を使った上着(アノラック・パーカー)と,カリブーやアザラシ・ホッキョクグマの毛皮でズボンをつくり,じかに素肌に着た。履物はアザラシなどでつくったブーツに干し草をつめた。毛皮は人間の尿水で半鞣しされた。セイウチの腸を縫い合わせて雨具などの防水服をもつくられた。特殊な縫い方で縫い目から水漏れしない服を着て−30℃以下まで耐えることができたが,命にかかわるなどの非常の事情がなければ,エスキモーは−35℃ぐらいまで温度が下がると,なるべく屋外活動を停止して,屋内に閉じこもるようにしていた。
〔社会〕エスキモーの社会はそれぞれの自然環境と生業によって少しずつ違っていたが,全般的にみれば,数家族からなる小さなバンドが冬のキャンプで集合した。この集団は基本的に親族関係によって結ばれていた。この親族範囲を拡大する意味もあって,個人と個人とのあいだに特別のパートナー関係が結ばれた。パートナーはたとえば互いに優先的に交易をしたり,あるいは歌を交換したりして,親族同様に関係をもっていた。パートナーはおもに男同士であったが,女性がパートナー関係に入ることも珍しくなかった。誤解の多い,いわゆる“妻貸し”風習もこのパートナー関係と呼ばれる擬親族制と深く関係していたようであり,単なる来客歓待という低い次元の奇習ではなかった。
〔精神生活〕万物有霊を基調としたアニミズムと呼ばれる宗教は精神生活の中軸をなして,宗教職能者のシャーマンが病人を治療したり,豊猟の儀礼を司どったり,または海底に潜り,あるいは月へ飛んで悪霊と闘ったと信じられていた。人が死ねと,その名前は生まれたばかりの赤ん坊につけられることによって,死者の霊は名前を通じて次の世代に伝わる。地域によって地下にあった,あるいは空の上にあったと考えられた死後の世界では,生前と同じ生活がつづけられるとされたが,狩猟中に死亡した男,お産のときに死亡した女などは死後に安楽に暮らせると考えられていたようである。悪霊をかわすために一人にいくつもの名前をつけたり,強い霊力をもつ動物の爪などを護符にして身につけていた。動物の皮を剥げば人間の顔がのぞいてくるという考え方からしても,人間と動物は基本的に同次元の存在であったことがうかがわれる。西南アラスカを中心に行われた膀胱祭や北アラスカの使者祭と,カナダでは万物創造者であるセドナを祭る儀礼がおもな祭りであった。秋にとれた食料の貯えもあり,生業活動が少ない12月ごろに祭りが催された。死体を石積みの墓や洞窟に埋めるほか,地(雪)面に石を楕円形に並べたなかに死体を放置して動物に食べさせるなど葬送は多種多様だ,葬儀のような儀式がなかったようである。いずれも,衣服をまとわせて,生前に使っていた道具などを副える風習が広くみられた。
〔他民族との関係〕1年の大半を森林で過ごすインディアンとの関係は多様で,時代と場合によって友好的であったり,敵対関係にあったりしたようである。接触時代(グリーンランドでは前1000年ごろ,アラスカでは18世紀中葉)以降,二つの民族関係はツンドラと森林の境に繁殖する毛皮獣の罠猟をめぐって険悪になった。多くの民族誌でエスキモーとインディアンは宿敵のように書かれているのはそのためであろう。接触以前の時代では,エスキモーとインディアンとの関係はエスキモーのバンド同士の関係とあまり変わらず,結婚相手のやりとりもあったとされる。
〔食生活〕植物食が少ない極北では,生肉を食べる風習がある。肉を焼くと多くのビタミンなどの栄養素が壊されるが,生で食べると生命を維持するすべての栄養素が補給される。しかし,生食のほかに,ロウ石でつくった鍋に肉を肉汁に煮込んで食べる場合が多かった。そのほかに,植物食の不足を補うために,秋に集めたコケモモなどの奨果をクジラやアザラシの油とまぜて保存食をこしらえたり,射止めたカリブーの胃袋から未消化のコケをとって食べるなどの風習が知られている。サケやホッキョクイワナなどの魚を3枚におろして干してから保存食にもした。以上,素描したエスキモー生活は西洋人(文明)が北極に入る直前の,当時の伝統を復原した模範的なものである。微視的に描くと,はるかに変化に富んだものになる。たとえば,おもに沿岸地帯で生活しているエスキモーは夏になると内陸に入り,カリブーと魚類をとっていたこともあった。そういう意味で沿岸地帯を生活の根拠としていたというより,エスキモーは極北全体に立脚していた文化を営んでいたと考える方がより現実的な解釈であろう。
【探検史】西洋人はいつから北極へ入ったのかについて,定説はない。紀元前にギリシアのピュテアスが“凝結の海”,つまり結氷した海を見たという伝説があるほかに,6世紀にアイルランドの僧が皮舟で北極へ行ったという後世の記録はある。しかし,アイスランドへのノース人(ヴァイキング)の進出は最初の確実な出来事であり,そののち,986年に赤毛のエリックが率いるノース人の植民はグリーンランドに定着した。こうして14〜15世紀に気候の寒冷化などのために消滅するまで,南グリーンランドの沿岸地帯に北欧生活をまねた植民地が約400年のあいだ営まれた。当時のノース人は,グリーンランドの西海岸を伝って北緯80度付近まで探検したが,居住地は南グリーンランドに限られていた。東洋との交易を壟断していたスペインとポルトガルによって独占されていたアフリカ回りの航路の代わりに,イギリスは16世紀中葉にヨーロッパからシベリアの北を通るルートである北東航路探検を開始して Muscovy Company を設立した。ほぼ同じころに,つまり1570年代に,ヨーロッパからグリーンランドをへてカナダの北を通るルートである北西航路を探すべく北大西洋を渡ったフロビシャがバフィン島まで行った。フロビシャが黄鉄鉱を金とまちがえて本国へもって帰ったときにつれていかれたエスキモーは,ヨーロッパ人のみた最初のエスキモーであった。イギリスと同じように,北西航路を見つけて東洋との直接交易を望んでいたオランダからは,バレンツが,彼の名前を冠するバレンツ海を通りこしてノバヤ・ゼムリャまで達したが,ついに太平洋まで行けなかったばかりか,帰国の途で死んだ。しかし,部下が本国に紹介したホッキョクグマ・クジラ・アザラシなどの情報によって,スピーツベルゲン(スバールバル)を中心に捕鯨などが隆盛をきわめる結果となった。そののち,ロシアが独自に東進政策を打ち出して,1725年にデンマーク人のベーリング(V.Bering)を派遣して,シベリアとその東にある未知の地をロシア領土にすることを命じた。1740〜41年に行われた3回目の探検遠征のときに,アジアと北アメリカの両大陸をわかつベーリング海峡と,アラスカとアリューシャン列島を発見して,ロシア領土権を宣言した。世界一周の大挙を遂げた英国人のキャプテン=クックが北西航路を西から東へ突破しようとしたさい,ベーリング海峡を通過し,北緯70度まで達して,アジアと北アメリカはつながっていないことを最終的に立証した。結局,海氷などのために北東航路は航海不可能であることが18世紀末に判明されたが,探検によって,アラスカとアリューシャン列島に利用価値の高い毛皮をもつオットセイが発見され,毛皮やそのほかの資源を開発するために,1867年までつづいたロシア植民地が新大陸で営まれた。北西航路では,フロビシャののちに,デーヴィス・ハドソン・バフィンなどが,以後それぞれの名前を冠することにした島などを発見し,グリーンランドより少しずつ西へ進んだ。19世紀初頭にナポレオン戦争が終結して,英国政府が提供した5,000ポンドの賞金を目当てに,探検の熱がいよいよ極に達した。アブラナなどを室内栽培して壊血病を防いだパリーが西経110度まで到達した。1831年に,Boothia 半島(北緯70度,西経97度)でロスによって発見された磁北極は,1980年に Bathurst 島(北緯76度,西経102度)付近まで移動している。もともとハワイ諸島付近に位置して,数百万年をかけて北極圏に入った磁北極は,長期の移動のほかに,1日に数十kmもの小刻みな動きを見せていることは最近の研究によって明らかにされた。北西航路が確定したのは,フランクリン隊の遭難の副産物であるといえよう。1845年に北西航路を開こうと志して,2隻の船に134名を乗せて英国をあとにしたフランクリンは英国海軍の伝統を墨守した結果,船が海氷に閉じこめられて潰されたのち,銀食器などが入った船箪笥(たんす)を樫(かし)材でつくった重い橇に乗せて乗組員に引かせた。この愚挙のあげく全員死亡したが,フランクリンを救助するために活躍した多数の捜索隊によってカナダの極北の地理などがおおかた判明され,1850年代にマックルアーが北西航路の存在を確かめた。ただし,初めて船が完走したのは,1903〜06年のアムンゼンのジョア号である。北東航路の探検はシベリアなどの原住民にどのように影響を及ぼしたか明らかではないが,北西航路探検によって,原住民のエスキモーの伝統生活に変化が現れはじめた。銛や弓矢に代わる銃,石器に代わる鉄製品によって伝統的な生業活動が変化し,それに伴って社会・文化的な変化が生じた。
【現代】エスキモーという名称は元来“エスキモー”のことばではなく,アルゴンキン=インディアンのことばに由来する侮蔑的な名称であるという説はあるが,定かではない。inupiaq 語を話す者はイヌイット(〈人間〉の複数形)と自称し,yup’ik 語を話す者は自らユク,またはツク(と同じ意味)と自称する。カナダのイヌイットは“エスキモー”という名称をことさらに好まないので,行政機関もマス=メディアもイヌイットと呼んでいるが,アラスカとグリーンランドでは民族語以外のことばを使用する場合,“エスキモー”が一般的に用いられている。また,学術用語としては通常“エスキモー”が使われる。現在,北極圏では伝統的な生活を営んでいる原住民はなく,石油に支えられている機械文明にすっかり溶け込んでいる。エスキモーもシベリアの原住民も石油暖房のある木造家屋に住み,犬橇の代わりにスノーモビルに乗り,食料の大部分を村の店で買う生活が一般的である。北極の急速な近代化のきっかけとしては,第二次世界大戦後におきたアメリカ・ソビエトの冷戦状態に伴うレーダー基地の建設や,北極ルートの航空路の開設・天然資源の開発,または領土権確立に伴った原住民に対する同化政策などが挙げられる。米ソ間の冷戦のために,アラスカからグリーンランドまで,50カ所の有人レーダー基地と多数の無人施設によって構成される遠隔早期警戒線(DEW ライン)の建設のために,エスキモーが現場労働者として働き,基地の用務員にもなった。また,物資搬入のために交通の近代化が進むにつれて,原住民は石油文明に直面し,急速にその生活様式が変わってしまった。飛行機の高性能化によって大陸間の直接飛行が可能になり,北極航空路の開設のために北極に対する認識は変わり,北極の重要性は改めて意識されるようになった。この認識により,多方面にわたる開発が容易になり,促進された。この事態によっても原住民の生活は影響され,変化したのである。天然資源の開発は原住民の生活を変化させた最大の原因の一つであるといえよう。国際情勢が緊張し,北極圏内に埋蔵される石油や鉱物が見直され,または大河が流れるアラスカやシベリアでは,森林資源が開発された。
〔宗教〕捕鯨者や探検家のあとに,カトリックとプロテスタントの宣教師が北極圏に入って布教活動をつづけた結果,1950年代までほとんどのエスキモーはキリスト教に帰依して,シャーマンはもはや存在しないものとなった。多数の宗派が割拠し活動しているので,一つの村には一つ,例外的には二つの教会があり,日曜日に多くの人が集まる。しかし,最近の特徴としては,新興宗教が普及している。数十年前まで,学校教育も宣教師に任せられていた。
〔衣食住〕エスキモーなどの原住民の現状は国によって多少違っているが,重油の暖房施設が完備している木造のしっかりしたプレハブに住み,衣服も伝統の毛皮製のものはほとんど使われず,G パンと羽毛のコートのいでたちが目立つ。食生活も大幅に変化して,民族経営の協同組合(コープ)やハドソン湾会社の経営する店で買う食料が大半を占めている。ただし,1950〜60年代に顧みられなかった伝統食料であるアザラシ・クジラ・カリブーなどの肉は健康上の理由により,最近になって再び重視されるようになった。
〔教育〕教育の面でも,最近になってさまざまな改革が実施されている。アラスカやカナダでは従来英語による授業は低学年では民族語で行われ,極北に適した教材が開発されている。しかし,最終的に教育はもっぱら英語(カナダのケベック州ではフランス語も)で行われているので,エスキモー語の将来を危ぶむ人は少なくない。
〔医療〕現在,どの村にも応急手当てができる看護センターがあり,大きな村では医療所が常設されている。巡回医(歯医者も)によって定期的に実施される予防注射・胸部レントゲン,乳幼児の健康管理が向上したために新生児の生存率と,平均寿命が飛躍的にのび,原住民の人口が数十年で倍増している。また,家族手当て,健康・失業保険などの生活保護のために生活水準はそれぞれの国の平均値に近づきつつある。
〔経済〕開発事業や政府の出先機関での雇用によって,長期にわたる賃金労働のほかに,伝統手工芸,日本の版画技術を応用して始められた石版の版画,彫刻品・毛皮などの特産物の販売によって,比較的に安定した現金収入が原住民の重要な支えとなっている。手工芸の販売,または生活物資の購入はしだいに協同組合組織に移っていることにより,自主的な管理運営が浸透している。このように,1960年代以降,北極の原住民生活は少しずつ安定し,文明社会への融合には紆余曲折があるにしても,比較的に円滑に進められている。
〔社会問題〕西洋の文明社会へ移行する過程において,さまざまな社会問題がおきている。捕鯨者によってもち込まれた酒が多くの問題をもたらしたが,最近になって禁酒,もしくは購入できる酒の量と種類を自主的にも制限して,アルコール中毒が克服されつつある。しかし,銃などの導入によって個人的行動が可能になったので,グループ行動を基調とした伝統社会の組織や性質が変化し,現在,新しい秩序が成立されようとしているところである。たとえば,条約などの法的措置がとれないままアラスカでは,白人が勝手に原住民の住むところの天然資源を開発してきたことに対して,1971年には土地権利の問題を解決する Land Claims Settlement が成立し,16万1,880平方kmの土地が原住民に与えられ,供託などの形で約1,000万米ドルが支払われた。カナダでは,アラスカのような解決がまだ実現していないが,“わが故土”という,土地所有権ないし使用権と,天然資源の管理権を確立させるNunavuut 運動は盛んである。いずれ,土地の所有権および使用権と,今まで白人によって得られた利益に対する弁債に関する協定が結ばれることはもはや必至の状況である。グリンランダーと呼ばれるグリーンランドの住民(原住民および定住ヨーロッパ系の人々)は外交権を除いたほぼ完全な自治権を1979年に獲得した。
【北極点の到達】北極の征服はすでに19世紀から試みられたが,英国人のバカン(1818)・パーリー(1827)などが装備の不備などのために失敗に終わり,1893年にナンセンが極地に適した装備と,アザラシなどの現地食料調達というやり方を採用するまで,北緯80度付近は壁であった。ナンセンは86度まで達し,1909年にピアリーが数回の試みの末,やっと北極点到達の夢を果たしたと,一般にうけとられている。ピアリーの発表より少し前,クックは極点達成を発表したが,記録の紛失などの問題が重なり,一般的に認められていない。ただし,ピアリーの記録にも不備の点があり,果たして北極点に到達したかどうかという疑問が残る。
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