●北海道開拓使 ほっかいどうかいたくし
アジア 日本 AD1869 明治時代
1869年(明治2)より1882年まで北海道開拓のために設けられた政府機関。明治政府は当初古代の官制にならった行政機構(太政官制)をとったが,開拓使は各省と同等の,太政官に直属するものとして設置された。「使」というのは,鎮撫使などのように臨時的・特殊的な機関に付けられたもので,開拓使も開拓が進展した後には廃止され,北海道は他府県と同様の扱いになるとされていた。【開拓使の設置と初期の開拓政策】幕末以来のロシアの脅威から,明治政府にとっても北海道と樺太の開拓が急務と考えられた。当初,北海道には箱館裁判所,そして箱館府が置かれていたが,その地方行政庁としての職掌も開拓使に移管された。初代長官には鍋島直正が任じられ,その後東久世通禧が第2代長官,黒田清隆が第3代長官となった。維新後間もなくのことで政府としての内実も十分ではなかった段階では,北海道を各藩の分領とする形で開拓を進めざるをえなかった。1871年,廃藩置県が実施されて,この藩による分領支配も廃止された。開拓使が主管した北海道への組織的移住は,1869年,開拓使の官員の赴任に当たって東京で募集し,根室・宗谷・樺太に約500人の農工民を同行させたのが初めであるとされている。開拓の初期には,募集した移民に対し3年間の食料扶助,家屋や寝具の給与といった手厚い保護が与えられた。しかし1872年以降は積極的な募集はやめ,保護も低減している。
【開拓使十年計画と開拓事業】1872年より開拓使十年計画が実施されることになった。これは,10年間に年平均100万円の財政支出を行い(それまでは年20万円程度であった),開拓に長じた外国人の指導を受け,本格的に北海道開拓を行おうとするものであった。1870年に次官に就任していた黒田清隆自身が渡米し,農務長官を務めたケプロンを顧問として招き,開拓全般にわたって指導を受けることになった。ほかにアンチセル(化学技師)・ワーフィールド(機械の運転および土木・測量技師)・ライマン(鉱山技師)・クラーク(札幌農学校教頭)など,多くの技術者・専門家が招かれた。これらの人々は,在任期間は必ずしも長くはなかったが,直接開拓事業に寄与するだけでなく,多くの日本人技術者を養成している。また,榎本武揚・大鳥圭介ら日本人技術者も活躍した。開拓のための基礎事業・基盤整備事業として,地形・地質の測量・調査,道路の開削,港湾の整備,鉄道の建設などが行われた。鉱山の開採も計画され,茅沼・幌内で石炭の採掘が行われた。生産・生活資材を供給したり,北海道の物産を輸出・移出品にしようとして,多くの官営工場が建設された。製鉄所・木挽器械所・製鋼所・魚粕製造所・麦酒ならびにブドウ酒製造所・紡織所・罐詰所などである。ここで,農具・鍋釜・味噌醤油などが製造された。農民の移住が計画され,開墾出願者には10万坪の割渡しが認められた。欧米農法が積極的にとり入れられ,東京・七重・札幌などに官園が設置されて新しい品種の栽培やプラウ類などの農業機械が導入され,普及が図られた。また,畜産が奨励され,各地に模範農場がつくられたほか,馬匹の改良も図られた。一般農民にも諸作物の種子・苗木が給与されたり,西洋農具の貸与・払い下げが行われた。札幌農学校では多くの有能な人材が育成された。没落した士族の救済と北辺の警備を目的とした屯田兵制度も設けられた。
【開拓使の結末】黒田長官らの反対にもかかわらず,開拓使は,十年計画の終了する1881年で廃止されることになっていた。廃止の直前に開拓使官有物払い下げ事件がおきた。開拓のために多額の財政支出がなされたが,西南戦争による国家財政の破綻や,千島樺太交換条約締結に伴うロシアの脅威の減少など,種々の政治的・社会的条件などにも左右されて,必ずしも大きな成果を上げえなかった。しかし,それは本格的な内国植民地経営の経験もなく,またそれを行いうる社会的・経済的条件も不十分であった――日本全体の資本主義発達が不十分であった中ではやむをえない面も多かった。
〔参考文献〕北海道『新北海道史』第三巻,1971
高倉新一郎監修,関秀志編『北海道の研究』5,1983,清文堂