●北海道 ほっかいどう
アジア 日本 AD
北海道本島と利尻・礼文・奥尻などの属島から成り立っている。東経139度20分から148度53分,北緯41度21分から45度33分に位置しており,周囲は海に囲まれ,東南は太平洋,西は日本海,北はオホーツク海に面している。また,宗谷海峡を挟んでサハリン(樺太),津軽海峡を挟んで本州とそれぞれ相対している。面積は7万8,522平方kmで,これに歯舞(はぼまい)群島外の北方領土の面積4,995平方kmを加えた総面積は8万3,517平方kmとなり,全国面積の22.1%を占め,東北6県に新潟県を加えた広さよりも大きい。行政上,1地方,1道の区分がなされ,地方自治体としても最大である。道内は,北海道の出先機関である石狩・渡島・檜山・後志・空知・上川・留萌・宗谷・網走・胆振・日高・十勝・釧路・根室の14支庁に分かれ,さらに札幌市ほか31市,156町24村から成り立っている。人口は,569万7,595人(男279万2,445人,女290万5,150人,1984年9月現在)で,東京・大阪・神奈川・愛知に次ぎ,全国第5位である。北海道の鳥はタンチョウ,木はエゾマツ,花はハマナス。また道章は,開拓使時代の旗章のイメージを七光星として現代的に表現したもので,1967年(昭和42)に制定された。北海道庁の所在地は札幌市中央区北3条西6丁目である。【北海道の自然】北海道の位置する北緯40度圏には,南フランス・黒海・イタリアなどがあるが,北海道の冬の気温は,同緯度の他地域に比べてかなり低く,気候条件はノルウェー・フィンランド・ソ連などの北緯50〜60度圏の国々に似ている。こうした気候を反映して,平野部には泥炭地が広がっている。夏のあいだは快適であるが,11月になると西高東低の気圧配置が強まり,シベリア大陸にできた冷たい,乾いた寒気が流入する。そして,日本海を通過する際に供給された水蒸気が雪となり,日本海沿岸部を中心に2〜3mの積雪をもたらす。一方,内陸部や道東地方では雪が少なく晴天の日が多いが,気温は零下20〜30℃にも下がる。次に地形上では,樺太山系より北海道中央部に連なる蝦夷山系,千島弧,東北地方より北海道南西部に連なる北日本弧の存在が特徴的で,これらが北海道の骨格をなしている。そして,道央の石狩低地帯を境として,胴体部と半島部とに区分され,前者には天塩山地・夕張山地・北見山地・日高山地,十勝平野,根釧台地が,また後者には,黒松内低地帯,渡島山地・駒ケ岳などの火山群が含まれる。これを生物相からみると,本州との間にブラキストン線,サハリン(樺太)との間に八田線,千島列島との間に宮部線が設定され,エゾシカやヒグマのように本州とは異なった動物が存在する。なお,植物分布のみでは,むしろ渡島半島の基底部にあたる黒松内低地帯が本州との境界となっている。
【北海道の開拓】江戸時代末期まで蝦夷地と呼ばれていた北海道は,松前藩や江戸幕府の手で漁業を中心とする開拓が一定程度進められていたが,明治維新によって中止された。維新の変革と共に成立した明治政府は,1868年(明治1)4月,蝦夷地の地方行政と開拓を担当する機関として箱館裁判所を設置した。同閏4月,裁判所は箱館府と改称されたが,まもなく箱館戦争の勃発によってその事業は中絶した。1869年7月,明治政府は官制改革を実施し,蝦夷地開拓の専掌機関として中央政府の中に開拓使を置いた。同年8月,蝦夷地を北海道と改称し,11カ国86郡を設定した。当初開拓使は,直轄地以外の経営を水戸・佐賀・金沢などの諸藩や東京府,兵部省などに割当てる分領開拓の方式を採用した。しかしこれでは全道の統一的開拓が困難なためまもなく中止され,1870年開拓次官に就任した黒田清隆の下で,西洋技術の導入による開拓政策が積極的に採用された。これが1872年より開始された開拓使10年計画であり,主にアメリカ人技術者の指導の下に,海陸運輸の改良,各種官営工場の新設,移民の招来と保護,幌内炭鉱の開発,屯田兵制度や札幌農学校の創設が実現した。計画終了直前の1884年(明治14)には開拓使官有物払下事件が勃発し,払下計画は中止された。翌1885年1月,10年計画の終了と共に開拓使は廃止され,同年2月,新たに函館・札幌・根室の3県が置かれた。1886年1月には旧開拓使の官営事業を所管する農商務省北海道事業管理局も置かれたが,両者の拮抗はかえって開拓事業の阻害要因となり,1886年(明治19)1月,3県を廃止して新たに北海道庁が置かれた。初代長官に就任した岩村通俊は,〈貧民ヲ植エズシテ富民ヲ植エン〉との立場から,従来の移民政策に典型的な直接保護政策を廃止して間接保護政策に転換し,北海道移民導入の前提となる植民地の撰定・道路の開鑿・鉄道の布設・築港などの開拓方針を呈示し,積極的な資本家招来政策を推進した。さらに1901年(明治34)からは園田安賢第8代長官の下で北海道10年計画が発足したが,日露戦争に伴なう経費節減で,当初計画の5割弱の実績にとどまった。そこで後任の河島醇第9代長官は,この計画を途中で打ち切り,1910年(明治43)より15年間の予定で,毎年250万円の定額と北海道における政府の歳入増加額とを合わせて総額7,000万円を支出し,拓殖上緊急な事業を同費で実施しようとした。これが北海道第1期拓殖計画と呼ばれるもので,実際には1926年(昭和1)まで17年間実施され,1億5,871万円の経費が投入された。この計画では,道路・橋梁や港湾施設の建設,河川改修などの土木事業に重点が置かれていたが,この結果,計画開始時の人口161万545人,既耕地53万8,034町,鉄道724マイル,道路2,680里は,終了時点で,それぞれ243万7,110人,78万4,269町,1,467マイル,9,920里に増加した。しかし,人口でいえば当初目標の300万人に対し,約81%の達成率にすぎなかった。なおこの間,1918年(大正7)8月には開道50年記念式典が札幌で盛大に実施され,北海道が開拓地から準“内地”化したことを内外に示した。ひきつづき1927年(昭和2)からは,20年間に農耕適地約158万町歩の墾成,農業経営法の改善と牛馬100万頭の充実,総人口600万人達成を目標とする北海道第2期拓殖計画が発足した。しかし,日中戦争から太平洋戦争という過程をへる中で,拓殖計画の重点も変更を余儀なくされ,計画終了時の1946年には,牛馬は目標の38%,人口は58%にとどまっていた。
【戦後の開発】敗戦によってすべての海外植民地を失った政府は,引揚者や復員軍人の受入先として未利用地の豊富な北海道に再び着目し,とりあえず緊急開拓事業に着手した。そして,1950年(昭和25)には北海道開発法が制定され,北海道開発庁が設置された。翌1951年には,その実施機関として北海道開発局が設置され,第1期北海道総合開発計画の第1次5カ年計画が1952年より1956年まで,同第2次5カ年計画が1958年より1962年まで実施された。さらに,1963年からは8カ年の計画で第2期北海道総合開発計画が発足し,道路・港湾などの基盤作り,農林水産業の近代化,工業の振興が進められた。こうした実績の上に,1971年より10カ年計画の第3期北海道総合開発計画が策定されたが,1973年の石油危機などでその修正を迫られ,1977年北海道発展計画を作成,1978年より10カ年計画で実施されている。