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●ホー=チミン

アジア ベトナム社会主義共和国 AD1890 グエン朝

 1890〜1969 ヴェトナムの共産党の創立者で民族解放運動の指導者。ヴェトナム民主共和国の初代国家主席(1945〜69)。

【経歴】1890年5月19日ヴェトナム中部ゲティン省ナムダン県の貧しい儒者の家に生まれ,幼名をグエン=シンクン,学齢に達してからの名をグエン=タットタインといった。1905年から10年にかけてフエのクオックホック校に学ぶ。1911年フランス船のコック見習いとして出国し,ヨーロッパ・アフリカ・アメリカ各地を点々としたのち,1917年からパリに住みフランス社会党に参加。1919年ベルサイユ講和会議にグエン=アイクオック(阮愛国)という名で「安南人民の要求」を提出,一躍有名になった。1920年レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」を読み急速に共産主義に接近し,同年のフランス社会党ツール大会では同党のコミンテルン加入を支持,フランス共産党創立に加わった。1923年農民インター大会参加,24年にはコミンテルン第5回大会に参加し,大会後東南アジア担当のコミンテルン東方部委員となる。1925年中国にわたり広州でヴェトナム青年革命同志会を結成。1927年中国で国共対立が激化したためソ連に行き,ヨーロッパで活動したのち1928年秋シャムへわたり同国在住ヴェトナム人のなかで活動した。1930年2月ヴェトナム人共産主義者の諸グループ統一のための会議を香港で召集し,ヴェトナム共産党を結成,そののち南洋共産党の改組やシャム共産党の結成に関与。1931年香港でイギリス官憲に逮捕されたが1933年に釈放されソ連に戻る。1935年コミンテルン第7回大会に参加し,1938年には中国へ行き延安などで活動,1940年末にヴェトナムに入り1941年5月インドシナ共産党第8回中央委員会を主宰してヴェトミンの結成を主唱した。1942年ホー=チミンと名のって抗日勢力結集のため中国へわたったが国民党当局により逮捕され,約1年間広西で投獄された。釈放後ヴェトナムに戻り1944年12月にはのちの人民軍の前身であるヴェトナム解放軍宣伝隊を結成,1945年8月の8月革命において指導的役割を果たし,9月2日に発表された独立宣言を起草,ヴェトナム民主共和国の初代国家主席となった。1946年フォンテヌブローで行われたフランスとの外交交渉に赴いたが,帰国後フランスとの関係は悪化し,同年12月20日全国抗戦のアピールを発して抵抗戦争に入った。抵抗の精神的支柱となった彼は,1951年の党大会でヴェトナム労働党の党主席に選出された。そののち,1954年のジュネーブ協定への調印,1957年の北ベトナムでの土地改革の「行き過ぎ」の是正,1960年の81カ国共産党・労働者党会議や中ソ対立のなかでの社会主義諸国からのヴェトナム支援の獲得などの重要な局面で決定的な役割を果たしつつ,党の集団指導体制の育成に努め,安定した政治指導体制の形成に成功した。アメリカとの戦争が激しく展開されていた1969年9月3日,〈山もある河もある人もいる,アメリカに勝利したら築きあげよう今よりも10倍も美しい祖国を〉ということばを残して,79歳で死去した。

【思想】ホー=チミンは,民族主義から共産主義へ接近していったアジアの典型的な革命家であった。コミンテルン時代の彼の活動は,国際共産主義運動が植民地の諸民族の力に,より注目するようにという努力に集中され,そののちのフランス・アメリカに対するヴェトナム民族解放運動は民族的力の大きさをみごとに証明することになった。〈独立と自由ほど尊いものはない〉という言葉は,彼の思想の結晶である。彼はヴェトナム民族解放運動におけるカリスマ的指導者であったが,そのカリスマ性はヴェトナムの人々にとって“村のよき長老”とでもいうべきものであった。「ホーおじさん」という呼び方にそのことはよく表されている。演説や論文よりも出会いという契機が重要な意味をもった指導者であった。

〔参考文献〕ヴェトナム労働党史編纂委員会・ヴェトナム外文書院編,原大三郎・太田勝洪訳『ホー=チ=ミン』1972年,東邦出版社

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