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●墓地 ぼち

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【墓地とは】墓地は一般には死体処理のための葬地といわれる。墓地はハカ・ハカバ・サンマイ・ヤマともいうがハカの語源は明らかではない。法律では〈墓地とは墳墓を設けるために墓地として都道府県知事の許可をうけた地域〉であり〈墳墓とは死体を埋葬し,または焼骨を埋蔵する施設〉とされる。この規定は一般の墓の観念とは一致しない点がある。

【墓地の立地】人生いたるところに青山ありといい,墓地は山麓や山腹にあるのが多い。山の遠い平野部ではやや高めの土地に,海岸部では浜辺に,河川があれば河原にもあり,畑の岸や河岸にもある。都市では人家が増加して町中になった墓地もあるが,ふつうは人家から隔たっている。また家に近接していたり,屋敷内にある例もある。もちこしといって遠く離れた隣村の山中にある例もある。

【墓地の種類】墓地は葬法と関連し土葬墓と火葬墓は異なる。沖縄の風葬墓は岩陰を利用したが,17世紀末に亀甲墓が現れた。墓地には家別墓地と共同墓地があり,共同墓地は惣墓・郷墓ともいう。寺にあるのは寺墓で寺が管理する。現代は市営墓地もある。子供だけを葬る子墓や年齢別・男女別に埋葬するところもある。そのほか軍人墓地・外人墓地・住職墓地・同族墓地などがあり,両墓制のところでは埋め墓詣り墓がある。

両墓制単墓制】埋葬地点に石塔を立てる墓を単墓制というのに対し埋葬地とは別に石塔を立てそこを礼拝供養の対象とするのが両墓制である。両墓制の成因には諸説があるが近畿地方を中心に分布する。この詣り墓は死体も焼骨も埋めないので法律の墳墓には該当しない。埋墓はハカ・ボチ・ウメバカ・ステバカ・ミハカ・サンマイ・ムソバなど,詣り墓は石塔墓・カラムショ・ラントバ・アゲハカ・タッチャバなどという。

【墓地と石塔】現代では墓地といえば石塔(石仏を含め)は当然の付随物と思われるが,昔は石塔のない墓地は多く,現在でも石塔のない墓地や火葬場だけで墓地をもたない例もある。埋葬後石塔を立てるまでクギヌキ・スヤ・サヤ・四十九陰・モンガリ・サンギッチョ・イガキ・屋根などといって覆いをつくる例が多い。これは古代の喪屋の遺制であろうという。石塔を墓と呼ぶことは平安時代からみられ,死体を伴わない石塔をも墓と呼んだ。死体を伴う石塔は墓塔といって区別する。死体などを納めないのを供養塔というが,墓塔ももちろん供養の志で立てたものである。現在の石塔は墓標・記念碑の観が強い。

【墓の歴史】縄文時代には屈葬で葬られ,弥生時代には伸展葬で土壙墓や箱式石棺で集合集地に葬られた。ついで巨大古墳ののち,群集墳が現れたが,646年(大化2)の甲申の詔(薄葬令)によって墓の簡略化がみられた。奈良時代は貴族の氏々祖墓があり,庶民は河原などに共同使用の墓地を設けたことが推測される。太宝律令には〈凡そ墓には皆碑を立てよ〉という規定があるが,実際はほとんど行れていない。平安時代には皇室をはじめ火葬が多くなる一方金色堂のような墓堂もできた。仇野鳥辺山は庶民の葬地で土饅頭だけの荒涼とした風景であった。平安中期から埋葬地上に卒塔婆を立てる風がおこり,鎌倉時代には五輸塔が普及し関東では板碑が多かった。室町時代には塔墓が庶民のあいだでも造立され,関西には一石五輪塔が多く,墓参りも行われた。しかし一人1基の石塔が立ったわけではない。江戸時代の墓石塔も元禄以前に遡るものは少ない。ところによっては明治に初めて石塔を立てた例もある。

【現代の墓地】墓地公園・霊苑などという墓地が生まれ,古い石塔を整理して,家紋入りの先祖代々之墓1基を石燈籠・花立て・玉垣で飾るようになったのは火葬の普及と関係があろう。一面また結縁の種子もなく形式的には卒塔婆と全く無関係で,石塔といわず石碑というように記念碑となり写真を焼付けるものも現れた。ただその碑が開眼を行い霊の依代として永久の祭りの場とされるところが記念碑と異なる点である。

〔参考文献〕最上孝敬他編『葬送墓制研究集成』1982,名著出版