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●細川氏 ほそかわし

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 [1]南北朝・室町時代の守護大名。室町幕府の管領をつとめる三管家の一。本姓清和源氏。足利氏の祖義康の曽孫義季が鎌倉中期,三河国額田郡細川郷(現在の岡崎市細川)に住み,細川二郎と称したのに始まる。義季の祖父義清(『尊卑分脈』に〈仁木・細川両流等祖〉とある)・父義実の勢力範囲は下野・上野の一部にとどまり,三河へは及んでいなかったが,義季は実国(仁木祖)・義宗(戸賀崎祖)ら兄弟とともに,本宗足利氏の守護管国三河に本拠を移したとみなされている。鎌倉期における細川氏の動静はほとんどつまびらかでなく,『吾妻鏡』の建長2年3月1日条に義季とも推定される〈細川宮内丞〉がみえる程度である。これは細川氏が本宗足利氏のもとに従属し,その経済基盤も弱体であったことに起因した。細川氏の所領は細川郷のほか,それ以外の額田郡内,およびこれに隣接する幡豆(はづ)郡内にも点在したと考えられる。こうしたなかで,元弘・建武の動乱はそれまで本宗のもとにかくれていた細川一族をはじめとする足利氏庶流にまたとない活躍の機会を与えることになった。細川勢は1333年(元弘3)足利尊氏の六波羅探題攻撃に加わったと考えられ,また細川和氏・頼春・師氏兄弟は鎌倉をおとした新田義貞を駆逐し,鎌倉を足利氏の拠点とするなどの功をなした。建武新政府が成立すると,鎌倉に下った足利直義のもとに師氏が従ったり,在京中の足利尊氏の随兵に直俊が加わったりしたほか,1335年(建武2)の中先代の乱では細川氏は大きな犠牲を払った。このような忠功を通じて細川氏は足利将軍家の信頼を得,武門における地歩を固めた。幕初,細川氏は侍所頭人・引付頭人を輩出し(和氏・顕氏・頼春),和氏の子清氏が将軍家の執事に用いられたのもその徴証である。軍事面における一族の足なみは観応擾乱のさいの頼春・清氏(尊氏党)と顕氏(直義党)との競合など,時として乱れることもあったが,細川氏は分国形成に大きな成功を収め,南北朝初期に四国を中心として畿内・山陽に及ぶ8カ国(讃岐・土佐・河内・和泉・阿波・備後・伊予・淡路)を兄弟・いとこで分有したが,これはのちの細川氏の世襲分国体制の原型をなすものである。有力守護大名としての細川氏の権勢を確固たるものにしたのはいうまでもなく頼春の子細川頼之である。頼之は1367年(貞治6),2代将軍足利義詮より嫡子義満の補佐を託され,義詮の没後3代将軍義満の成人するまでのあいだ,幕府の管領として将軍の全権限を代行し,よく幼将軍補佐の大役を果たした。頼之のこの職権活動は幕府の管領制の確立を意味するとともに,細川氏の権威をゆるぎないものにした。頼之は弟頼元を養子として家督を継がせたが,この一流の嫡家を京兆家・管領家と称し,嫡子は相次いで管領の座についた。同じ三管の斯波・畠山両氏の内訌と凋落に乗じて,細川政元は応仁・文明以降実質的に管領の座を独占したが,没後は継嗣問題をめぐって内証をきたし,1552年(天文21)晴元が家臣三好長慶に退けられるにいたり,管領細川氏は没落した。

 [2]江戸幕府下の外様大名。本家は肥後熊本藩主。細川頼之の弟頼有から8代目の,刑部大輔・播磨守で和泉半国守護細川元常の養子となった三淵藤孝(細川幽斎と号す。元常の弟三淵晴員の子)よりおこる。藤孝は故実・歌道に通じていた。足利義晴に仕え,その没後は足利義昭を奉じて織田信長を頼った。豊臣秀吉・徳川家康にも重用され,丹後田辺城主となる。その子細川忠興は父藤孝とともに信長に重んじられ,丹後宮津城主となる。のち秀吉に従ったが没後は家康に属した。1600年(慶長5)の関ケ原の戦いで家康方に加わり,その軍功によって豊前小倉に移封された。忠興の子忠利は1632年(寛永9)加藤氏のあとを受けて肥後熊本城主となり,54万石を領した。以降子孫がよくこれを継ぎ,明治維新にいたる。1749年(寛延2)櫨実の専売によって藩財政を再建しようとした細川重賢は忠利の玄孫である。明治以降,1869年(明治2)華族に列され,1884年(明治17)侯爵,1947年(昭和22)族称廃止。

〔参考文献〕小川信『足利一門守護発展史の研究』1980,吉川弘文館