●ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
ヨーロッパ ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 AD
ボスニアおよびヘルツェゴヴィナは,現在ユーゴスラヴィアの一部を形成している。ボスニア・ヘルツェゴヴィナが歴史の上に姿を現してくるのは,古代ローマの属州の一部となってからである。西ローマ帝国が476年に滅亡し,ゲルマン民族の大移動も一段落した7世紀ごろから,スラヴ系の南スラヴ人に属するセルブ(セルビア)人やクロアティア人が定住するようになり,それは現在までつづいている。12世紀以後,東方からきたマジャール人がつくったハンガリーの支配下におかれるようになり,さらに,東から進出し,東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン=トルコ帝国によって,15世紀以来,支配され,その領土となっていた。トルコの北方および西方への進出基地となり,オーストリアやハンガリーにとっては危険な存在であった。このため,オーストリアでは,18世紀前半から,この国境線にそって,一種の農民兵を配置したほどで,小戦闘が絶えなかった。【ベルリン会議以後】1878年,露土戦争の結末を議するために,ビスマルクが「公正な仲裁人」と称して召集したベルリン会議は,ロシアにとっては不満足な結果に終わり,オーストリアは領土権はトルコがもつボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州の行政権とノヴィ=パザールにおける軍隊の駐在権をえた。両州がオーストリアの行政権の下に渡されたのは,1875年にボスニアでおこった,スラヴ人のトルコ支配に対する反乱が理由にされ,露土戦争時に,オーストリアが占領していた。
その後,ドイツにおいて,パン=ゲルマン主義がおこってくると,オーストリアもこれに応じ,ここからエーゲ海のサロニケに通ずる鉄道を計画し,バルカン半島を東進する姿勢を示した。
【合併問題】1908年,青年トルコ党がトルコで革命をおこした混乱期に乗じ,オーストリアは両州を占領して,その領土の合併を宣言した。南スラブ人の指導的立場にあったセルビア人は,一種のパン=スラブ主義ともいえる大セルビア主義をかかげて,過去の栄光を再現させようとし,それが民族独立運動となって,パン=ゲルマン主義のオーストリアと支配民族であるトルコを敵視していたが,そのときに,オーストリアが両州を合併したので,セルビア人は強くこれに反対し,セルビアの背後にあって,パン=スラブ主義をとり,バルカンへの侵出を企図していたロシアもこれに反対した。ドイツはオーストリアを後援して国際緊張が高まった。
この危機は,日露戦争に敗れて,国内が不安定であり,積極的な国際支援も得られないと判断したロシアが譲り,オーストリアの両州合併は認められ,パン=スラブ主義はパン=ゲルマン主義に屈服した形で終わった。これをボスニア・ヘルツェゴヴィナの危機と呼び,第一次世界大戦への伏線となった。
【第一次世界大戦以後】合併を機に,セルビア人の反オーストリア運動は高まりをみせ,合法的運動から,しだいに過激な非合的手段がいわれるようになってきた。秘密結社で民族主義団体である黒手組はこの傾向にそって現れたものであり,黒手組に属するセルビアの一青年プリンツィプが,オーストリアの皇位継承者であるフェルディナント夫妻を,1914年6月28日,ボスニア州の都市サライェヴォで射殺した,いわゆるサライェヴォ事件によって,第一次世界大戦が始まった。セルビア政府は,直接にこの事件には関係していなかったが,オーストリアはセルビア政府の責任を追及して,7月23日に最後通告を発した。これらを考えれば,ボスニア・ヘルツェゴヴィナ合併が,第一次世界大戦を引きおこす要因の一つであったということができる。第一次世界大戦終了後の1918年,両州はセルブ=クロアート=スロヴェーン王国の領土とされ,第二次世界大戦後の1948年に,ユーゴスラヴィア共和国領となった。