●ボストン茶会事件 ボストンちゃかいじけん
ヨーロッパ 英国 AD1773 ハノーヴァー・ウィンザー朝
アメリカ独立戦争の発端となった,反本国派がボストン港に停泊中の船を襲い,東インド会社所有の茶を海に投棄した,1773年12月16日の事件。フレンチ-インディアン(七年)戦争(1756〜63)以降,イギリスの本国政府はその北アメリカ植民地に対し重商主義政策を強めていった。植民地運営にかかる費用を植民地で徴収する目的で,1765年に印紙条令を,1767年にタウンゼンド諸法税法を定めた。しかしイギリス製品ボイコットを含む植民地人の強い反対に会い,これらを撤回。本国政府の植民地に対する課税権の確認のため,茶税(茶条令)だけは残した。1773年茶の在庫を大量にかかえ財政難に陥っていた東インド会社を救うため,本国政府は同会社に,アメリカ植民地における茶の専売特権を与えることを決めた。植民地では当時茶をほとんどオランダからの密輸に依っていたので,それを阻止する意図もあった。しかし茶の貿易で利益を得ていた商人や,専売化が他品目に及ぶことを恐れた商人がそれに反対する一方,これを本国政府による課税権確立の手段とみなし,植民地自治が脅かされることをおそれた“愛国派”は,より強硬な抗議運動を展開したのであった。1773年12月東インド会社の茶を積載した船が植民地の四つの港(チャールストン・フィラデルフィア・ニューヨーク・ボストン)に到着した。フィラデルフィアとニューヨークでは,茶は陸揚げされなかった。チャールストンでは陸揚げされたものの,倉庫に入れられたままにされ,売りに出されることはなかった。ボストンにおいては“愛国派”は集会を開き,東インド会社の船は茶を積んだままイギリスに戻るべきであるとする決議を採択し,これを植民地総督トマス=ハッチンソンに伝えた。ハッチンソンは当然このような要求を拒んだが,それが伝えられるや,モホーク=インディアンや黒人に扮装したボストン市民の一団が船(3隻)を襲い,342個の茶箱の中身(45t)を海に捨てた。この事件により本国政府は態度を硬化させ,報復措置として,翌年ボストン港法・屯営法・裁判行政法・マサチューセッツ統治法・ケベック法などいわゆる“懲罰諸法”を定めた。これらの法律はいずれもイギリス市民の基本的権利と自由にかかわるものであり,そのために全植民地を通じて,抵抗・独立の気運を高める原因となった。