●戊戌政変 ぼじゅつせいへん
アジア 中華人民共和国 AD1898 清
1898年(光緒24)9月,西太后(慈禧皇太后)が戊戌変法といわれる政治改革を圧殺した清国の宮廷政変。干支紀年では戊戌の年にあたるので,こう呼ばれる。1895年(光緒20・明治27)の日清戦争敗北によって,1860年代以来,曽国藩や李鴻章らがすすめてきた洋務政策の無効が明らかとなり,その上列強の対中国侵略はいっそう激しくなった。そこで,康有為らを指導者とした新しい政治改革の主張(変法論)と,その採用を求める活動(変法運動)が高まった。彼らの主張は,直面している民族的危機を打開し,民族の独立と富強化をはかるためには軍備の増強・近代化だけではなく,政治制度と政策の全面的な改革を実施して,近代的国家体制を樹立する以外にはない,というものであった。光緒帝は彼ら変法派の改革意見を採用し,1898年6月11日に政治改革の実施を宣布し,康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)らを採用して改革に着手した。改革は,産業・軍事・教育・法制・行政機構など多方面な分野での近代化をすすめ,日本の明治維新を模範として立憲君主制の近代国家の樹立をめざす大改革であった。しかし,当時はなお保守派が圧倒的に根強い勢力をもっていて,改革は容易ではなかった。もともと今文公羊学の立場にたって当時の主流の儒学思想を批判した康有為の学説は,学界の強い非難をあび,その著書は発売を禁止されたこともあった。まして,その学説にもとづいた政治改革論は強い抵抗にあい,日清戦争直後からの数回の上奏も,そのほとんどが政府高官にはばまれて皇帝に届かず却下された。彼らが北京・上海に設けた強学会も禁止され,1898年4月に設立した保国会も非難を受けて停会のやむなきにいたった。
光緒帝が康有為らの参画を得て大改革に着手するや,西太后を先頭とした保守派官僚の反発をひきおこし,改革派とのあいだに激しい権力争いが発生した。光緒帝は皇帝の位についてはいたが,実権は西太后に握られていた。早くも,光緒帝が改革着手を宣布した4日後,西太后は光緒帝の信任の厚い改革推進の最有力者オウドウワ※注1※から戸部尚書・軍機大臣などの官職を剥奪して本籍地へ追放する,新任の2品以上の大臣に西太后に対して「謝恩」の礼をとらせる,彼女の信任厚い保守派の有力者栄禄を直隷総督に任命したうえ,袁世凱の指揮下の新建陸軍などの最精鋭軍を統率させる,などの措置をとって公然たる改革妨害対策をうち出した。また,改革支持者に対するさまざまな圧力も加えられ,工部尚書ソンカダイ※注2※を中心とする中央の改革派官僚や,改革に協力していたただ一人の湖南巡撫陳宝箴もしだいに康有為から遠ざかり,康有為自身も上海の『時務官報』の監督に任命されて,上海に左遷されようとした。光緒帝はいっそう改革に積極的となり,9月初めには改革に反対した礼部の尚書・侍郎など高官の免職,改革に協力しない李鴻章など地方長官への叱責など保守派へ攻撃を加え,他方,譚嗣同ら優秀な若手改革派を軍機処へ登用して改革の促進をはかった。しかし,中央・地方とも保守勢力が根強く,改革の実効は望めなかった。苦境の打開を焦った改革派は袁世凱に頼って非常手段に訴えて局面の好転をはかろうとし,保守派の領袖栄禄の殺害と,軍隊による西太后の居所頤和園の包囲を依頼した。ところが,袁世凱はこれを栄禄に密告し,改革派弾圧の密計に加わった。ついに9月21日早朝,西太后の指示のもと政変がおこされた。光緒帝を中南海の一室に閉じこめ,西太后自らが「訓政」にあたることが宣され,改革派への決定的な弾圧が行われ始めた。康有為・梁啓超は事前に察知して前日に北京を離れ,康は上海をへて香港へ,梁は天津をへて日本へ亡命し,その後,海外で改革運動をつづけることとなった。譚嗣同ら6人は「大逆不道」の罪名で逮捕されて,28日に処刑された(戊戌六君子と呼ばれる)。陳宝箴・黄遵憲ら改革派官僚数十人は免職となり,官界から改革派は一掃された。国政の全面的近代化をめざした改革は完全に挫折させられた。
〔参考文献〕矢野仁一「戊戌の変法及び政変」史林8―1・2・3
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