●保科正之 ほしなまさゆき
アジア 日本 AD1611 江戸時代
1611〜72(慶長16〜寛文12)江戸時代前期の大名。徳川秀忠の四男,母は神尾氏出身のお静の方。徳川家光の異母弟。高遠藩主保科正光の養嗣子となり,幼名幸松麿,通称肥後守と称す。1631年(寛永8)高遠3万石襲封,1636年出羽国山形藩主20万石,1643年陸奥国会津藩主23万石の大名となる。彼は「会津家訓」のごときものをつくり家臣団編成,税制,義倉・社倉づくりにつとめ,備荒貯蓄と殖産興業につとめるとともに,朱子学を奨励し文教を勧めるなど名君ぶりを発揮した。1651年(慶安4)3月家光の死後,家光の遺言によって幼少(4歳)の家綱の補佐となって幕政に重きをなしている。そして10年の長きにわたって幕政の事実上の政策を担当し,由比(由井)正雪の乱などに対しても適切な措置をとり,末期養子の禁を緩め,とりつぶし緩和につとめ,明暦の火災後は城のない江戸行政を展開し,文治政治への移行に力をつくす。朱子学的教養もたかく,『輔養編』『玉山講義附録』『会津国土記』の編さんにつとむ。