●北魏 ほくぎ
アジア 中華人民共和国 AD386
386〜534 中国,鮮卑族の拓跋部が華北に建設した王朝で後魏または元魏とも呼ぶ。【歴史】拓跋部は3世紀ごろ内モンゴルに勢力を伸ばしつつ西晋に内属し,拓跋猗盧のとき代王に封ぜられた。五胡の侵入期に入ると拓跋部は前秦の圧迫を受けたが,ヒスイ※注1※の戦いの後,前秦の勢力が衰えたのに乗じて再び勢力を盛んにした。386年(登国1)拓跋珪(道武帝)は諸部に推されて即位し,国号を魏と定め,部族制を解散して国家としての体制を固めるとともに四方に向かって発展した。すなわちまずオルドス地方に至るまでの地域を制圧し,次いで現在の河北省一帯に進出し国都を盛楽から平城(大同)に遷した。次の明元帝・太武帝の時代にはさらに強大となり,五胡十六国の争乱の時代を終結に導き,439年(太延5)華北の統一をほぼ完成するに至った。第6代の孝文帝は大規模に漢化政策を推進したことで著名である。すなわち493年(太和17),国都を平城より洛陽に遷し,また鮮卑族伝統の衣服や言語を中国風に改めるなどの強行策をとった。このとき鮮卑族の姓である胡姓を中国風に改め,王室の姓の拓跋氏も元氏と改称したので元魏と呼ばれるのである。漢化政策の結果,中国文化および社会との同化が進み文化的向上は著しかったが,鮮卑族伝統の質実剛健な気風が失われたため保守派を中心とする勢力の反発は激しかった。ここに国内の分裂の原因があり,とくに幼少の孝明帝が即位し霊太后が摂政となるに及んで,ついに524年(正光5)六鎮の乱を惹き起こすに至った。この乱は爾朱栄によって制圧されたが,彼は配下の将軍高歓によって討滅され高歓は孝静帝を擁立して勢力を固めた。一方,宇文泰は文帝を擁立して高歓の勢力と対立し,ここに魏は東西に分裂するに至った(東魏は山西・河北・山東を,西魏は陝西・甘粛をそれぞれ勢力圏としている)。
【制度】初期においては鮮卑族に固有のものが主体であったが,漢化政策の推進とともに中国風の諸制度が導入されることとなった。とくに孝文帝のとき新律を制定し,俸禄制や均田制を定め三長制を実施するなどの新政策を行っている。均田制は485年(太和9)施行されたが,奴婢・耕牛も給田の対象となっている。この点より見ると,大土地所有の制限という目的より,農業労働力を定着させ租税収入を向上させることに大きな目標があったことが推定される。三長制は486年制定された郷村の編成組織であり,5家を隣,5隣を里,5里を党とし,隣長・里長・党長の三長を置いたものである。これらの長には戸口調査・徴税などを担当させたものであり,国家の郷村支配の末端機構であると同時に一種の地方自治的組織ともなっていた。
【宗教】仏教はすでに五胡十六国の時代にその勢力を確立し,この時代にさらに発展し国家による仏教の統制も行われた。雲崗の石窟寺院の開掘が行われ,洛陽遷都後,龍門の石窟寺院の造営が開始されたことは仏教の隆盛をよく示している。道教は寇謙之が新天師道を開いて道教を大成し太武帝に篤く信仰され,やがて道教は国教とされるに至った。これは道教が従来の民衆道教から大きく発展したことを示すものとして重要である。なお太武帝は仏教を弾圧し,いわゆる三武一宗の法難の第一となったがこのあと仏教は曇曜らによって復興された。
〔参考文献〕「東アジア世界の変貌」世界の歴史6,1961,筑摩書房
前田正名『平城の歴史地理学的研究』1979,風間書房
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